教義上(私観ではなく)正直に申しますと、ペットのために読むお経というものはありませんでした。
それは、お経というのも自体がお釈迦様の教えが記されたものであり、この世の苦からどのように生きればよいかという教え(法)であるからです。
その意味では、死者へのものというより、むしろ生者のためにお経はあるのです。
お葬式の時に僧侶が行うことは、生前の罪を改めてお釈迦様の弟子にすること、生まれたばかりの不安定な魂を供養することなのです。
そう言う意味で、お経は死者へのものでもあり、生きている参列者のみなさんのためでもあるのです。
そして、それは人間だけものであり、お釈迦様が動物を弟子にし、仏法(仏陀に成るための教え)を説いた事はないのです。
ここからが私観です。
まずは、教義から言ってお釈迦様は私たちに、“ひたすら仏法を説き、生きている人間を救いなさい!そして、葬儀は在家の者に任せなさい。”と言っておりました。
本来、葬儀とは仏法を授けてもらった家族(在家)の方がするのが本当の意味での葬儀であるのですが、それができないので出家した僧侶に手助けしてもらい葬儀をすることになったのです。
であれば、僧侶の唱えるお経によって飼い主さんに仏法を授け、その授かった人がペットを供養することは、間接的にお経の功徳がペットに届くということであるのです。
だから、お経の功徳はパートナーたちにも届くので、ペットのためのお経はあると言えるのではないでしょうか。
さらに、飼い主のいない者たちだって、お経を唱える私が動物好きで、彼らすべてに対する想いがあるから、直接的にも動物たちのためのお経はあることになるのです。
そう言ったうんちく以前に、動物たちのためにお経が読みたいとの想いで僧侶になった私が存在していること自体が、すべての者たちに差別なくお経の功徳があることを証明しているようなものです。
もし、それが認められないようならば、私は僧侶にはなれなかっただろうし、修行半ばにして挫折していたはずでしょう。
また、前述で敢えて「過去形」で記したのは、教義は過去からの伝来であり、その時代に適したものであったものをそのままにしているだけだからです。
お釈迦様の存命している時代は、動物いやペットいやパートナーが現在のような伴侶動物、家族の一員という地位を確立するまでには到っていなかった時代背景でだったのに、“生きとし生けるものはみな平等である”と考えていたのですよ。
それが、先祖代々の皆さんのおかげで、ここまで霊格を上げた存在になってたのを知っていたら、人間と動物を差別して供養したでしょうか?というのが私(悟りを得ない未熟な)の見解となってくるのです。
そして、お釈迦様には『対機説法』という有名なものがあります。
それは、時を踏まえ、人に合わせ、仏法を分かりやすく説く、機を捉えた仏法の説き方です。
過去の教えだけを信仰し、対機説法をせずして、いったい人心の何を救おうと言うのでしょうか?その柔軟性がないのを見透かされないように、過去の法を楯にしているようでは、それこそ煩悩に囚われている証を自ら証明しているようなものです。
ひたすら仏法を説きなさ!人々を救いなさい!と命を受け、受戒をし、血脈を継いだ法の伝法者として、何をすべきか?(どうすればいいかを探求するのが僧でもある)、
権威や形だけの僧侶でなければ分かるはずです!
囚われのない、あるがままの不汚染の理(ことわり)が…。
ちょっと話が脇道にそれたので話を戻します。
ペットのためのお経はあります。
人間のお経と同じで、何ら変わるところはございません。
それは共に生きる同じパートナーだからです。それがたまたま、人間(動物)であったり、ペット(動物)であるにしかすぎないのです。同じ地球に生きる動物なのです。
私たちのパートナーへの愛情が、人間同様のものであること、愛情には違いがないことを私たちは知っています。この愛情の違いのなさを周囲の人たちにも理解して欲しいことでありますね。
パートナーを亡くしたことのある私たちが一番よく知っているはずです。
いや、亡くなったパートナーの方がよく知っているかもしれませんね。
生前の愛情のある者への供養は、人間もペットも区別はありません、同じ愛情を抱いたものなのですから。
動物たちのためにお経が読めたら…と想い続けていたことが、縁あってこの道に繋がった私が言うのだから、ペットのためのお経はあります!
間違えありません!!
トップページにもあるように、「心のこもった供養は、共に暮らし愛してきた皆様にできること」なのであり、
私は、そんな優しい方々のお役に立てればと考えている僧侶なのです。
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