Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   寺の由来…
 寺の由来は“照らす”という言葉の音から来ています。
 それは、仏の慈悲が生きとし生きるものすべてを無条件に救う(=照らす)ということが源になっているからです。
 寺や僧侶というものは、悩みや苦しみからの救済を目的とし、精神的な教えを説き心に安らぎをもたらす機能を有していた。
 “生きとし生きるものを無条件に”と言うならば、人間はもちろんなのであろうが、動物においても同じことが言えるはずである。
 なのに、伴侶動物との関係性だけでなく、葬祭や供養法など新しい価値観を認めること(無条件に)ができなかった為に、仏教離れが進み、葬式仏教と揶揄されるように形骸化してしまったのではないか。
 仏教という教えが知的観念として体系化してしまい、本来の感性を失って知識としての教義になってしまった。
 このような価値観念に縛られないようにと、お釈迦さん、キリストさんは自分の教えを形に記そうとしなかったのではないだろうか。
 だから、様々な言葉で、柔和な言動で、人々の心に馴染むように理性と感性の両方から示したのではなかろうか。
 この両聖者の教えを文字にしたのは弟子たちであり、時を隔てた後生の人々である。
 もちろん、文字にしなければ知ることはできなかっただろうから否定はしないが、行間を読むことや目に見えないものを感じることを忘れてはならない。
 宗教を英語でレリジョン(religion)と言い、「再び合体(結合)する」という意味で、もともとは結びついていた人と人、人と自然(動物)、人と超自然的なものとを再び結合して、関係性喪失の修復をはかることが宗教なのである。
 ペットロスも学術的には対象性喪失とされるように、その関係の修復をはかるのは、まさに宗教の役割でもあるのです。 
 この関係の修復という結びつきがソウルメイトなのであり、この関係性を重視しているので、私は霊園の名前に引用したのです。
 また、何語か不明ですがテラ=地球を意味することからも、今世紀からの自然環境問題、動物愛護の提起は“てら”からでありたいと思っております。それが私の道でもあるのです。
 
 共に生きてきた者を亡くして暗く沈んだ心を、
 すべてを包む慈悲で心を優しく照らし、
 少しでもペットロスを癒せる、
 安らぎを与えられる僧侶になりたい!
 そんなお寺を目指したい!
 
 と思う私です。
更新日時:
2002/07/12
   私の禅道とペット…
「禅道とは、これ仏道なり。仏道とは生きるすべてである。何を学ぶぞ我のみぞ知る。」
 
 禅宗と言うと坐禅をすることが修行と思われがちですが、何も座って坐禅をすることだけが修行なのではなく、寝ていても起きても、食べることも、遊ぶこともすべてが禅道であり修行なのです。
 また、仏道も同様に、生活の全てが修行であると説いています。
 要するに修行とは生きることそのものであり、僧侶だけのものではなく、すべての人にある生活の中から何かを掴み得て、よりよく生きることにあるのです。
 それをさらに探求するために僧侶という道があり、一つの道に秀でた人や工匠、人生の辛苦を味わった人の思想が仏道と似てくるのは、生きることがすなわち修行だからです。
 坐禅を組むのは、安らぎを得る心のありようを感じるのに、形からの方が得られやすいからであって、何も坐禅を組むことだけだ坐禅なのではなく、日常生活における心のありようを安らかなものにするための方便なのです。
 
 私たちはコンパニオンアニマル(伴侶動物)との生活の中で、優しさ、愛情、喜び、悲しみ、苦しみ、などいろいろ経験することと思いますが、彼らは人間より短い生を知りながら、私たちに会いたく生まれてくるのです。
 私たちに何かを伝えるために、気づかせるために…。
 それが生前からの約束だから…
 この“気づき”のことが“悟り”でもあり、悟りとは何か上の方にあるようなものではなく、空気同様に自分の周りに常に存在する目に見えないものなので、日常の中にこそ悟りはあるのです。
 この何かに“気づく”ことが大切なことであり、身近にある小さな幸福に気づき、よりよく生きることを伴侶動物たちは教えてくれているのではないでしょうか?
 それ故に彼らは言葉を持たず、私たちに感じること、気づくことの大切さを分からせようとして感性に秀でた肉体をしているのではなかろうか。
 
 彼らとの生活で何に気づき、何を学ぶのでしょう。
 
 それは人それぞれであり、自らの心のみが知る。
 
 人生は修行であり、それぞれの道がある。今回の人生で何を学ぶために生まれてきたかは人それぞれである。
 
 私は非常に多くのことを学びました。
 でも未熟ゆえに気づいたのは失ってからですが…
 それでも、何も気づかないより好いし、それに気づいてこれからを生きれば、十分に取り返しがつきます。
 
 彼らがくれる“最後のプレゼント”を無駄にしないために、精一杯生きる。
 よりよく感謝して生きるのみである。
 彼らの分までも…
 
 “みんな、悲しいけどありがとう…”
更新日時:
2002/07/12
   新たなパートナー…
 愛していたパートナーが亡くなってしまい、こんな悲しみ・苦しみを味わうのなら、もう新たなペットを求めたくないという考え方や、新たにパートナーを求めると以前のペットへの愛情が薄れるようで…とか、嫉妬するかもしてないといって次のパートナーを求めない方がいらっしゃいます。
 その考え方も十分に理解できます。私自身もそうであったように。
 
 でも、私は変われましたので、その考え方を敢えて否定します。
 
 亡くなった者の死を悼むのは当然のことですが、その別れに飲み込まれてしまってはいけない。悲しい、辛いという一面は非常に酷なものですが、それ以上に彼らが与えてくれた愛情や喜びを忘れてはいけないと思います。
 私もずっと泣いてばかりで、食欲もなくなっていったことがあります。そんな時に「いつまでも泣いていると亡くなったペットが報われないよ」と言われたことがありました。
 これは私の“いっぱい泣くことはパートナーのためでもあり、天国に逝く唯一の方法なのではないか”という考え方とは異なるもので、言われたときは受け入れられませんでしたが、その後すぐに意味が分かったのです。
 それは、悲しみのために泣くのは当然のことであるし、思い出してあげること、話しかけること、泣くこと、お経を挙げること、様々な愛情の表現が供養になるのですが、べつに私たちを苦しめるために亡くなった訳でもないので、必要以上に泣いたり、苦しんでいるとペットに申し訳ないよと言われたことに気がつきました。
 それからも、いっぱい泣きはしますが、彼らが与えてくれた愛という贈り物を、別れという悲しみ以下にしてしまってはいけない。そうしてしまっては、それこそ亡くなって逝った彼らに申し訳ない。それ以上に愛情をくれたことに感謝しなければならない、別れより出会えたことに感謝しなければならないとなりました。
 だから今では、“悲しいけどありがとう”と言えるようになったのです。
 
 ここからは魂の法則を踏まえてです。
 
 私たちが考えていることとは異なり、亡くなったパートナーたちは私たちに再会したく積極的に働きかけてきます。
 それは転生して出会う者もいるし、魂の格を上げて守護霊になる者もいる。
 また、その間に他の仲間を紹介してくれたりして積極的に働きかけているのに、こちらの心が悲しみで閉ざされてしまっていると、何も感じずにせっかくの出会い(再会)のチャンスを逃してしまうのです。
 もちろん、チャンスは1回だけとは限らなく、そこで出会わないのには訳があるからであって、再度接触を試みてくることでしょう。
 そういう意味からも、新たなパートナーについて言うと、愛情が薄れるのではなく、さらに深くなるのであり、嫉妬するのではなく、敬愛しているから仲間を紹介してくるのです。
 この出会いはペットとしてだけではなく、自分の子供として、恋人として、友人として、尊敬できる人、愛着を感じるもの、植物など・・・とにかく出会うものすべてになって働きかけてくる。すべて共に生きるパートナーとして…
 だから、私たちは出会うものすべてに優しさを持って接しなければならない。すべての宗教がそれを言い続けるのもこのためです。
 そして、死とは、悲しみにより私たちをより優しい人に成長させて、更なる出会いを深める心の経験なのです。
 本当に生が一回だけであったら、こんな経験は不幸のどん底で、救いようのないもので、それから回復することなんて有り得ないはずです。
 
 彼らは私たちに“気づき”を与えてくれたソウルメイトであり、様々な人生を共にする仲間であり、魂の伴侶なのです。
 
更新日時:
2002/07/12
   ペットのためのお経はあるの…
 教義上(私観ではなく)正直に申しますと、ペットのために読むお経というものはありませんでした。
 
 それは、お経というのも自体がお釈迦様の教えが記されたものであり、この世の苦からどのように生きればよいかという教え(法)であるからです。
 その意味では、死者へのものというより、むしろ生者のためにお経はあるのです。
 お葬式の時に僧侶が行うことは、生前の罪を改めてお釈迦様の弟子にすること、生まれたばかりの不安定な魂を供養することなのです。
 そう言う意味で、お経は死者へのものでもあり、生きている参列者のみなさんのためでもあるのです。
 そして、それは人間だけものであり、お釈迦様が動物を弟子にし、仏法(仏陀に成るための教え)を説いた事はないのです。
 
  ここからが私観です。
 
 まずは、教義から言ってお釈迦様は私たちに、“ひたすら仏法を説き、生きている人間を救いなさい!そして、葬儀は在家の者に任せなさい。”と言っておりました。
 本来、葬儀とは仏法を授けてもらった家族(在家)の方がするのが本当の意味での葬儀であるのですが、それができないので出家した僧侶に手助けしてもらい葬儀をすることになったのです。
 であれば、僧侶の唱えるお経によって飼い主さんに仏法を授け、その授かった人がペットを供養することは、間接的にお経の功徳がペットに届くということであるのです。
 だから、お経の功徳はパートナーたちにも届くので、ペットのためのお経はあると言えるのではないでしょうか。
 さらに、飼い主のいない者たちだって、お経を唱える私が動物好きで、彼らすべてに対する想いがあるから、直接的にも動物たちのためのお経はあることになるのです。
 そう言ったうんちく以前に、動物たちのためにお経が読みたいとの想いで僧侶になった私が存在していること自体が、すべての者たちに差別なくお経の功徳があることを証明しているようなものです。
 もし、それが認められないようならば、私は僧侶にはなれなかっただろうし、修行半ばにして挫折していたはずでしょう。
 
 また、前述で敢えて「過去形」で記したのは、教義は過去からの伝来であり、その時代に適したものであったものをそのままにしているだけだからです。
 お釈迦様の存命している時代は、動物いやペットいやパートナーが現在のような伴侶動物、家族の一員という地位を確立するまでには到っていなかった時代背景でだったのに、“生きとし生けるものはみな平等である”と考えていたのですよ。
 それが、先祖代々の皆さんのおかげで、ここまで霊格を上げた存在になってたのを知っていたら、人間と動物を差別して供養したでしょうか?というのが私(悟りを得ない未熟な)の見解となってくるのです。
 そして、お釈迦様には『対機説法』という有名なものがあります。
 それは、時を踏まえ、人に合わせ、仏法を分かりやすく説く、機を捉えた仏法の説き方です。
 過去の教えだけを信仰し、対機説法をせずして、いったい人心の何を救おうと言うのでしょうか?その柔軟性がないのを見透かされないように、過去の法を楯にしているようでは、それこそ煩悩に囚われている証を自ら証明しているようなものです。
 ひたすら仏法を説きなさ!人々を救いなさい!と命を受け、受戒をし、血脈を継いだ法の伝法者として、何をすべきか?(どうすればいいかを探求するのが僧でもある)、
 権威や形だけの僧侶でなければ分かるはずです!
 囚われのない、あるがままの不汚染の理(ことわり)が…。
 
 ちょっと話が脇道にそれたので話を戻します。
 
 ペットのためのお経はあります。
人間のお経と同じで、何ら変わるところはございません。
 それは共に生きる同じパートナーだからです。それがたまたま、人間(動物)であったり、ペット(動物)であるにしかすぎないのです。同じ地球に生きる動物なのです。
 私たちのパートナーへの愛情が、人間同様のものであること、愛情には違いがないことを私たちは知っています。この愛情の違いのなさを周囲の人たちにも理解して欲しいことでありますね。
 パートナーを亡くしたことのある私たちが一番よく知っているはずです。
 いや、亡くなったパートナーの方がよく知っているかもしれませんね。
 生前の愛情のある者への供養は、人間もペットも区別はありません、同じ愛情を抱いたものなのですから。
 
 動物たちのためにお経が読めたら…と想い続けていたことが、縁あってこの道に繋がった私が言うのだから、ペットのためのお経はあります!
 間違えありません!!
 
 トップページにもあるように、「心のこもった供養は、共に暮らし愛してきた皆様にできること」なのであり、
 私は、そんな優しい方々のお役に立てればと考えている僧侶なのです。
 
更新日時:
2002/07/12
   魂の行方…
 魂の行方について詳しく書くと一冊の本になってしまうので、ここでは魂の成長についてちょっと考察してみます。
 魂は不滅の存在であり、この世とあの世とを行ったり来たりして成長を遂げてゆきます。
 それは円で表すことができます。
 円を半分にした半円がこの世(陽)で、残りの半円があの世(陰)の世界で、陰と陽は対であり、常に背中合わせで接している一つの世界を構成しています。
 半円の始まりがこの世での誕生にあたり、この世での終わりが半円の終わりで、あの世での誕生につながり、あの世での終わりがこの世での誕生にあたります。
 これは、寿命の長い短いに関係なく、この世での終わりはあの世での誕生にあたりますので、生も死も同じ誕生であり、出会いとなるのですから、寿命の長さ(時間)が満足の基準ではないのです。
 魂は生と死を繰り返し行っており、一回きりの生命ではないから、その旅ごとの出会いこそが、その生の満足度の基準になるのです。
 この世での「陽」の人生に対し、あの世では「陰」の人生を生きることになるのです。
 そして、この世での誕生を誕生日といいお祝いをするように、この世での終わりを命日といい葬儀を行い供養するのです。共に生を死を新たな誕生として祝福をしてあげるのです。
 また、誕生後の7日目を「お七夜」とするように、死亡後の7日目を「初七日」とし、誕生49日を「ウブアキ」となるように、亡後49日を「四十九日」とし、「食い始め」と「百ヶ日」、「初誕生日」と「一周忌」、「三歳(七五三)のお参り」と「三回忌(七回忌)」といったように、生と死、この世とあの世、陰と陽の生命を対にしての成長に伴って、祝福の儀式も対をなしているのです。
 この世に生まれてきたばかりの魂は成熟しておらず不安定なので、儀式をもって子供の成長をお祝いします。同様に、あの世に生まれたばかりの魂も安定していないので、儀式をもって霊格の向上と安定を供養するのです。
 魂が安定してくると、この世では成人となり、あの世では祖霊・守護霊となり、生も死も魂の違いはなく成長を遂げており、その住む世界が異なるだけなのです。(もっと詳しく言うと陽と陰で一つの世界なので、違いなどもそもそもないのですけど)
 そうして、陽からは死として転生の準備を終え、陰もまた生として転生の準備を終えるのです。
 
 転生の準備期間を動物にあてはめて考察すると、犬猫の生後1年は人間の20才にあたるので、一周忌には魂が安定しているとも考えられる。いわゆる一周忌は魂の成人式なのです。
 しかし、昔の成人は元服といって16才であったことを考慮に入れて計算すると、犬猫の一年は人間の4年にあたる計算になるので、一周忌の1年後の3回忌には20才になっているので、十分に魂が安定してきていると考えられる。
 つまり、1周忌から3回忌までの間に魂は成長して安定期になると考えられる。それに応じてかのように、私たちの心も約2年くらいの間に癒されてゆくのは、単なる偶然とは言えないのではないであろうか。
 ペットに関して言うと、1周忌から3回忌までの間に守護霊として霊格を安定して、私たちを見守ってくれるようになる。
 それは、生と死が対になっていて相対しているように、ペットとして守られていた関係が入れ替わり、今度は私たちがパートナーたちから守られるようになるのです。
 個人差はあるが、49日あたりが気持ちの整理がつき始め、1周忌や3回忌あたりになると、悲しくはなるものの、「ありがとう」と感謝できるまで気持ちが回復しているはずでしょう。
 
 “ありがとう!”と感謝できるという事は、すでに自分の元に魂が戻ってきていて守護しているからであり、生前の愛情関係があるから素直に感謝できるのではないだろうか。
 ちなみに、パートナーたちに関して“ありがとう”と思う気持ちと、“ごめんなさい”と思う気持ちは、愛情の表裏であって、同じ愛に変わりはないと私は感じます。
 
 そしていつか合流するときに、彼らは私たちを出迎えてくれる事でしょう。
 この時ばかりは、迎えに来てくれたことに『ありがとう』と言いたいものですね!
 
 
更新日時:
2002/07/12

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