Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   商業主義のペット霊園…
 私は僧侶として最初の葬儀に臨む前にある誓いを立てました。
 それは、『決して死に馴らされないこと』です。
 人生において個人の死は一回しかないことを肝に銘じたのです。
 僧侶や葬儀に携わる者にとっては、日々のことであり、肝に銘じない限り死に慣らされてしまいがちなものです。
 でも、本人や家族にとっては一回きりである大事な儀式であることを忘れてはならないと思っているのです。
 ペット霊園はペットブームに後追いするかのように増加していますが、急激な増加の背景にはそれなりの問題点も多く抱えているのです。
 人間の葬儀でも葬儀社が主体的になりすぎて、本来の主体である本人または施主の気持ちといったものを何処かに忘れてしまっているかのように淡々と進行してゆく。進行の手順がいいのは悪いことではないが、形式ばかりで心がないことを感じる時があります。
 ペットも同様に葬儀ということが一般的になるにつれて、霊園産業が商業主義になりがちになってきているような気がします。
 ペットとなると人間ほど丁寧でもないし、遺体を物として扱っているとの話や、形だけは整っているけど心が感じられないとか、もっと酷い現実があると聞きます。
 そんな時に、「私が最後を…」と思ってしまうのですが、私の体は一つしかないのでどうにもなりません。
 せめてちゃんと供養だけでもしてあげたいと思ってなりません。
 どうも心がすっきりしないのは何なのでしょうか?
 私の思い込みなのでしょうか?
 皆さんも同じような納得のいかない経験をされたことはありませんか?
 
 また、人間の常識をそのままパートナーに持ち込むと、ズレが生じてくるような気が…。
 人間中心すぎるし、宗教の成立時期において動物の地位は今ほどではなかったから、そのままではどうしてもギャップが生じてくるのです。
 例えば、“49日になったら必ず納骨しなければいけない”とか、“これくらいの供養をしてあげないと”とか、“人間のお墓と一緒に入ってはいけない”などいろいろありますが、望む気持ちと一致しないことがよくあります。
 商業主義ならば、ニーズと供給を一致してこそ商業であり、顧客満足ことがビジネスであり、時代にあったものを提供してこそサービスであるのに!などど商業主義をいい方向に持ってゆけないものだろうか?
 
 とにかく、忘れてはならないことは、『死に馴らされないこと』である。
 これは、霊園産業に携わる者すべてに言えることであり、決して忘れてはならないことである。
 
 自らの拠り所を見つめ直す正眼を持ちたいものですね。
更新日時:
2002/07/12
   一緒のお墓に入りたい…
 パートナーと一緒のお墓に入りたいと思っている人が多いことかと思います。それなのに、人間のパートナー(夫婦・家族)は一緒に入れるのに、パートナーがペット(動物)というだけで、なんでどこの寺院や霊園でも断られるのでしょう?
 私もハッキリした理由があるなら教えて欲しいくらいです。
 私もパートナーと一緒に入りたいと考えている一人ですから…(私も場合はさらに異なるかもしれないけど)
 
 うちのお寺(長福寺)は随分と変わっていて、檀家さんによっては先祖のお墓とペットのお墓が一緒になっていたり、人のお墓の隣が累代ペットのお墓とか、人のお墓の並びの中にペットのお墓(両隣は他人)があったりで、動物と人間を区別していなく、自然と同居している不思議なお寺なんです。
 たぶん、長福寺は末寺(まつじ)と言って檀家さんも少なく、寺の規模も小さいので可能なんだと思いますね。それに、今に始まった事でなく、既存の事実になっているので、当たり前のことであり、墓地区画の用途で分けるのではなく、区画を檀家さんに自由に使用して頂くと考えているのかな?
 とにかく、議論するまでもなく、ただただ自然なこととして捉えているので、理由なんて特にないのです。
 
 他の寺院や霊園では、「動物と人間は一緒のお墓に入れません!」、「人間と畜生が一緒のお墓に入ることは世界が違うから縁起が悪い」などと言って断られることでしょう。
 それは、お寺や霊園は共同体なので、一人でも動物嫌いの人や動物と人間を一緒にするなんて!と考えている人がいると、一緒のお墓に埋葬することを拒否せざるおえまんし、無宗派の霊園では考え方が色々なのでさらに無理でしょうね。
 宗教上においても、絶対にいけないわけではないと思いますし、言おうとしていることもわかりますが、「家運が落ちる」というような迷信に囚われているだけだと考えます。
 それに、仏教であれば、囚われは煩悩であり、執着することは良くない事になるはずなのに…。
 昔はペットが家族の一員としての地位を確立していたわけではないし、さらに過去においては動物と人間が一緒なんて考えも及ばなかっただけだと思います。
 それが、マンションなどではペットを飼ってはいけなかったのが、時代が変わるとペット同居用マンションになるように、時代と共に変化してくるとは思います。
 
 それが宗教や寺院となると、考え方が柔軟にならずに、過去の過去に囚われて、現代の誰も救えないのでは、何のための宗教なのかわからなくなってしまいます。
 もともと仏教は時代の変化に合わせて変遷したきたにも関わらず、その変化に対応できる人材が少ないこと、その変化に責任と信条を持てない僧侶が多くなってきたから、変化すること・対応することができなくなってしまっているのでしょう。
 常識破りなことをすると、変人だ馬鹿呼ばわりされますが、社会的に間違っていることでなく、自分の信じていることを貫くのと、時代に合った事であれば自ずと理解されると信じていますので、
 
私が馬鹿になりましょう。
(動物馬鹿なんていいことだし、馬も鹿も綺麗な目をしているし…)
 
 修行していた時も、動物のために僧侶になると言うと「馬鹿じゃないの」「頭どうかしてるよ」と言われていましたので馴れています。
 でも、これはお寺社会の小さな話であり、修行寺の檀家さんなどは、「そう言う優しい心のある人にこそ坊さんになって欲しい」「家がお寺だからではなく、何かに目覚めて僧侶の道を目指す人の方がありがたい」などと私を可愛がってくれました。
 動物のお寺と呼ばれる所は全国に何ヶ所かあります、私や宗派を越えて思いのある人が連帯していけば世界が変わると思います。
 
 パートナーたちと一緒に入れる霊園を私が始めれば、きっと時代は変わってくると思います。
 がんばりますので、もう少し待って下さいね!
 
更新日時:
2002/07/12
   語りましょう「私の夢」…
 私が僧侶になったのは、動物たちのためにお経が読めたら…というだけではないのです。
 今後のビジョンについてお話ししましょう。
 
 ペットのお坊さんというのが私の目指す最終地点ではなく、目標は動物保護・自然保護であり、この目標は大学以前からのもので終始変わらないものです。
 傷ついた動物や事故でケガをしたペットを無料で診察・保護できる動物保護医療センターの設立、団体の運営なのです。
 私は動物保護活動に資金が必要ならば、その資金を提供できる人間になろうと思い大学に進み、入学以前から卒業したら最初の5年間は「形のあるものを売る仕事」につき、転職して次の5年間で「形のないものを売る仕事」をして、トータル10年間を自分に投資し、独立して会社を設立しようと決めていました。
 そうすれば、「形のある・なし」に関わらず自分さえあれば、販売職・営業職、物流業・サービス業と商売をするにおいては、最強のプロフェッショナルな人間になり、そこで得た収入の一部を動物保護活動に還元するという仕組みを考えていたのです。
 そのために、大学は動物園の近くの大学と単純に決めて入り経済学を専攻し、ゼミと卒論は地球環境問題、卒業後は東証2部の(株)セキドで「形のあるものの勉強」をすべく、ペット用品の販売を勉強し、4年後に転職、(株)コスモリバティーという広告代理店で「形のないものの勉強」をすべく働いていたのです。
 予定どおり「形のあるものを売る」という、物流・販売の企業、次のステップである「形のないものを売る」という広告業界で勉強をしていたのです。
 以前から、お寺を継がないかと言われており、私は「はい」とOKしていたのですが、事情があり自分の思いを優先する訳にはいかなかったので、以前からの計画通りに勉強させてもえて、給料がいただけるサラリーマンをしていたのです。
 よく皆さんに「一般から僧侶になるのに、ずいぶん決心があったでしょう」とか、「よく人生の方向転換を決意したね」などと言われるのですが、私の夢は終始、独立・動物保護なので、別に変化は変化ですが、大転換でもなければ、一大決心でもないのです。
 目指すべく到達点は変わらず、そこに到る手段がちょっと変わった程度に思っているので、一大決心でもないのです。
 それに、僧侶の資格を得たら、またサラリーマンをするつもりでいたですから…
 
  そのビジョンはこうです。
 
 元々、動物好きでペットをいっぱい飼っていたのと、動物の保護や事故動物などで、動物の死に目に逢うことが多く、心からの供養がすべてだと考えていたのですが、みんなの為にお経が読めたらいいなぁ…と思っていたので、僧侶になることに憧れていたようなものなので抵抗が少なかったのですま。
 ただ単に高校生の時に、オウム教が盛んで拠点が近かったので、宗教や新興宗教は怖いものと思い一線を引いていただけで、宗教の「教え」だけは悪いものではないので宗派に関わらず本を読んでいました。
 
 僧侶になってお経が挙げられるようなれば人は当然のことながら、保護した動物たちを自然に帰せなかった時に供養することもできるし、何より「ペットのお坊さん」になってペット霊園の会社設立・運営をして、その財源を元に動物保護センターを設立・運営の母体とすることができるのではないかと考えたのです。
 また、動物保護のボランティアと同時に、学校に不適応な児童や自閉症の子供たちに動物の保護や世話をしてもらい、アニマルセラピーの効果などの観点から、「傷ついた動物を自分たちの手で協力して自然に帰せた」という自信をみんなに付けてもらいたいのと、みんなの居場所を確保してあげられるのではないかと考えたのです(妻が教育者で、結婚まで登校不適応の児童の世話をしていたので協力が得られることなども視点に入れて)。
 
 また、禅寺は日本文化の粋が集まっている場所なので、海外からの留学生を受け入れて解放し、日本文化を感じてもらうこと(禅はブームでもあるからのニーズなど)、ボランティアの思想に先行している彼らの力を借りて、動物保護を子供達と一緒に活動してもらえば、自然と外国語が話せるようになったり、個性豊かな外国の人々と交流することで個性(アイデンティティー)についての理解が深まり、彼らの自信になり、社会に参加できるようにしたいと考えでいるのです。
 これに伴い、自然や命の大切さを学ぶエコツーリズムなどの体験学習機関としてのテラスクール(お寺の「てら」と地球の「テラ」の造語から)を開校し、禅寺の宿泊体験と自然の学びの場、海外交流体験の一環として、学校では経験できないことを子供達に広く提供していきたいと考えているのです。
 
 これが、私の目指すものであり、生命の大切さを教えることが、私の生まれてきた使命でもあるのです。
 それは、亡くなった子たちが教えてくれたのであり、それを伝えるためには一般人よりも僧侶としての方が影響力に違いがあるから良いのではないかと思ったのです。
 その中心になるべく僧侶としての私が存在するのではないかとビジョンを設定したので、全くと言って良いほど抵抗感がないのです。
 その抵抗感がないのは、なるべくしてなったという導きがあったからで、私の心にいるパートナーたちが一緒に生きているという現われでもあるから違和感がないのです。
 また、表現を変えると、一般的に言う職業としての道と自分の生きる道と、僧侶としての追求の道が、すべて重なり先の見えない未知から一本の道になり、到達地点も明確になっていたので、心から自然と仏道の道に入っていけたのではないかと思っています。
 
 仏教でいう、身(今までの行い)、口(言葉にしてきたこと)、意(心でも思いや願い)の三業と因(要因)・縁(変化)・果(結果)の因果律が交わり感応道交して今に至り、また始まる。と仏教的に言えることを地で歩んでいる僧侶なんです。
更新日時:
2002/07/12
   道路で亡くなる子たちへ…
 先日も道路で跳ねられていた狸ちゃんを連れて帰り供養してあげたのですが、今日も道路のどこかで野生動物が車に跳ねられているかと思うと心と手が痛みます。
 私が大学以前に引越しのバイトをしていた時のことです。バイト先の近所の野良猫で、OLさんが会社帰りにエサを上げていて、私にもなついていた子がいました。
 早朝に駅から歩いていると、道路で見たことのある猫が跳ねられていました。私が近づこうとしたら、後ろから猛スピードでタクシーが来て、猫の遺体をさらに跳ねて浮き上がるのを見て、私は怒りの矛先をどこに向けていいのか分からなく、電柱を思いっきり殴ったことがあります。
 そして、私の拳は真っ青に腫れ、手首の骨が2本出てしまいました。
 その後、猫を看取りながら、きっと痛かったことだろうに・・・と自分の痛みをこの子の痛みと感じながら、「大丈夫だよ、痛くないよ。代わりに痛みを引き受けたからね。」と慰めました。
 気合と根性とでバイトを終えて、街路樹の元を見るとまだ遺体がそのままになっていました。私はバッグの中にあったタオルに猫を包み、家の猫達と同じお墓に入れてあげたく連れて帰りました。
 電車に揺られながら、「自分はいいと思っていても、他人が知ったらはおかしいのではないか?馬鹿なのではないか?」、「家に帰って母親になんて言ったらよいか?」と考えているうちに家に着いてしまいました。
 素直に母親にこの事を言うと、「あなたは、本当にお馬鹿さんね。」と愛情たっぷりに言われ、「明日、一緒のお墓に入れてあげましょう。」と泣きながら言われました。
 私は道路で亡くなっている子を見ると、心の痛みとあの時の手の痛みを思い出します。
 なんで、“一度跳ねられた上に、なんで何度も跳ねられなければならないのか?”“どうして誰か動かしてあげないのか?”と思ってしまいます。
 もっとも辛いのは火葬の後にお骨を拾ってあげる時です。外傷もひどく見るに耐えませんが、お骨は砕けていて、その痛みを思うと心が裂けそうになります。
 でも、最後にちゃんと供養してあげることで安らかに眠ってくれると思うと、少しでも彼らの癒しになれてよかったと感じます。
 今は、自分を傷つけたり、自分の身と引き換えにするような「代受苦(修験道の修行)」はしないので、一人の地球に生きる者として同じ仲間に心からお経を唱えています。
 そして今日も彼らのためにお経を唱えます。
 
更新日時:
2002/07/11
   ペットに戒名…
 亡くなった子に戒名を付けてあげたい気持ちはよくわかりますが、亡くなったパートナーにとって戒名は必要ありません。というより、不要ですと言った方が正確かな。
 そもそも戒名とはお釈迦様の仏弟子になることを意味し、生前に授与されるものなのです。
 多くは葬儀の時に生前に遡り、受戒という儀式を行い、戒名を授けています。
 宗教上の議論からいけば、動物たちが教えを学ぶ訳でもないし、仏弟子になるということもないので、戒名をつけてはならないと言うような答えが返ってくるでしょう。
 
 私の私観から言わせてもらうと、人間は煩悩が多く、悪いこともいっぱいしてきたので、あの世に行くには教えを学び、仏弟子になり、新たな名前をもらうということなのです。
 けれども、動物たちは裏切ったり、騙したりして自己の利を計らうわけでもなく、ただ純粋に生きてきただけなので、生前を悔い改めることは必要ないのです。
 だから、悔い改め戒律を守もりますという名前は必要ないし、不要だと私は考えております。
 彼らの目は純粋であり、特に悪いことをしてきたわけでもないのだから、戒名をつけてあげたい気持ちは分かるけど、不要なものなので、今まで通りに呼んであげるのが良いと思います。
 それに、戒名で呼んだら、きっと自分の事を呼んでいることに気づかないと思いますよ!
更新日時:
2002/07/11

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