私が僧侶になったのは、動物たちのためにお経が読めたら…というだけではないのです。
今後のビジョンについてお話ししましょう。
ペットのお坊さんというのが私の目指す最終地点ではなく、目標は動物保護・自然保護であり、この目標は大学以前からのもので終始変わらないものです。
傷ついた動物や事故でケガをしたペットを無料で診察・保護できる動物保護医療センターの設立、団体の運営なのです。
私は動物保護活動に資金が必要ならば、その資金を提供できる人間になろうと思い大学に進み、入学以前から卒業したら最初の5年間は「形のあるものを売る仕事」につき、転職して次の5年間で「形のないものを売る仕事」をして、トータル10年間を自分に投資し、独立して会社を設立しようと決めていました。
そうすれば、「形のある・なし」に関わらず自分さえあれば、販売職・営業職、物流業・サービス業と商売をするにおいては、最強のプロフェッショナルな人間になり、そこで得た収入の一部を動物保護活動に還元するという仕組みを考えていたのです。
そのために、大学は動物園の近くの大学と単純に決めて入り経済学を専攻し、ゼミと卒論は地球環境問題、卒業後は東証2部の(株)セキドで「形のあるものの勉強」をすべく、ペット用品の販売を勉強し、4年後に転職、(株)コスモリバティーという広告代理店で「形のないものの勉強」をすべく働いていたのです。
予定どおり「形のあるものを売る」という、物流・販売の企業、次のステップである「形のないものを売る」という広告業界で勉強をしていたのです。
以前から、お寺を継がないかと言われており、私は「はい」とOKしていたのですが、事情があり自分の思いを優先する訳にはいかなかったので、以前からの計画通りに勉強させてもえて、給料がいただけるサラリーマンをしていたのです。
よく皆さんに「一般から僧侶になるのに、ずいぶん決心があったでしょう」とか、「よく人生の方向転換を決意したね」などと言われるのですが、私の夢は終始、独立・動物保護なので、別に変化は変化ですが、大転換でもなければ、一大決心でもないのです。
目指すべく到達点は変わらず、そこに到る手段がちょっと変わった程度に思っているので、一大決心でもないのです。
それに、僧侶の資格を得たら、またサラリーマンをするつもりでいたですから…
そのビジョンはこうです。
元々、動物好きでペットをいっぱい飼っていたのと、動物の保護や事故動物などで、動物の死に目に逢うことが多く、心からの供養がすべてだと考えていたのですが、みんなの為にお経が読めたらいいなぁ…と思っていたので、僧侶になることに憧れていたようなものなので抵抗が少なかったのですま。
ただ単に高校生の時に、オウム教が盛んで拠点が近かったので、宗教や新興宗教は怖いものと思い一線を引いていただけで、宗教の「教え」だけは悪いものではないので宗派に関わらず本を読んでいました。
僧侶になってお経が挙げられるようなれば人は当然のことながら、保護した動物たちを自然に帰せなかった時に供養することもできるし、何より「ペットのお坊さん」になってペット霊園の会社設立・運営をして、その財源を元に動物保護センターを設立・運営の母体とすることができるのではないかと考えたのです。
また、動物保護のボランティアと同時に、学校に不適応な児童や自閉症の子供たちに動物の保護や世話をしてもらい、アニマルセラピーの効果などの観点から、「傷ついた動物を自分たちの手で協力して自然に帰せた」という自信をみんなに付けてもらいたいのと、みんなの居場所を確保してあげられるのではないかと考えたのです(妻が教育者で、結婚まで登校不適応の児童の世話をしていたので協力が得られることなども視点に入れて)。
また、禅寺は日本文化の粋が集まっている場所なので、海外からの留学生を受け入れて解放し、日本文化を感じてもらうこと(禅はブームでもあるからのニーズなど)、ボランティアの思想に先行している彼らの力を借りて、動物保護を子供達と一緒に活動してもらえば、自然と外国語が話せるようになったり、個性豊かな外国の人々と交流することで個性(アイデンティティー)についての理解が深まり、彼らの自信になり、社会に参加できるようにしたいと考えでいるのです。
これに伴い、自然や命の大切さを学ぶエコツーリズムなどの体験学習機関としてのテラスクール(お寺の「てら」と地球の「テラ」の造語から)を開校し、禅寺の宿泊体験と自然の学びの場、海外交流体験の一環として、学校では経験できないことを子供達に広く提供していきたいと考えているのです。
これが、私の目指すものであり、生命の大切さを教えることが、私の生まれてきた使命でもあるのです。
それは、亡くなった子たちが教えてくれたのであり、それを伝えるためには一般人よりも僧侶としての方が影響力に違いがあるから良いのではないかと思ったのです。
その中心になるべく僧侶としての私が存在するのではないかとビジョンを設定したので、全くと言って良いほど抵抗感がないのです。
その抵抗感がないのは、なるべくしてなったという導きがあったからで、私の心にいるパートナーたちが一緒に生きているという現われでもあるから違和感がないのです。
また、表現を変えると、一般的に言う職業としての道と自分の生きる道と、僧侶としての追求の道が、すべて重なり先の見えない未知から一本の道になり、到達地点も明確になっていたので、心から自然と仏道の道に入っていけたのではないかと思っています。
仏教でいう、身(今までの行い)、口(言葉にしてきたこと)、意(心でも思いや願い)の三業と因(要因)・縁(変化)・果(結果)の因果律が交わり感応道交して今に至り、また始まる。と仏教的に言えることを地で歩んでいる僧侶なんです。
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