Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   ペットの供養にお坊さんはいるの?
 死者を祭祀し供養するという思いは不易なもので、死者への哀惜や悲嘆に変わりはないと思います。
 でも、祭祀の仕方や供養の方法や形式は流行や宗派によっても変化してきたものなので、必要か必要でないかは皆さんの心の問題です。
 と答えてしまうと、私の存在証明があやふやになってしまうので、あの世のことと私観を述べさせてもらいます。
 宗教観から述べますと、正しく供養されなかった霊魂は餓鬼となり、あの世で苦しんでしまうので、正しい供養を受けて逝くべきところに逝かせてあげないといけない。
 正しい供養を受けなかった霊魂は、何とか正しい供養を受けて餓鬼世から抜け出したいと思い、生者に「供養して!」と音信を送るのです。
 その音信は、「夢」・「霊障(さわり)」・「祟り(たたり)」とも言われ、これによって報知してくるものです。
 なんであの世からの音信は凶事が多いかというと、生者達が幸福であるときには、あの世のことなど考えてくれないものなので、「供養して!」という音信を気づいてもらうために凶事が多くなってしまうのです。
 別に、恨んでいたり、悪さをしようとしているのではないのです。(霊や魂は、テレビやインチキ霊媒師のように煽ったり、人の心に付け込むことはしません。)
 でも、普通の人には単に、ついていなかっただけとか、運が悪かっただけと片づけられてしまうことが多いので、その音信は段々と過激になってくるのです。
 と、皆さんを威してインチキ宗教を起こす気もないし、自己を擁護するつもりは全然ありませんし、そこらへんの坊主に成り下がるつもりもありません。
 
 ですから私観から述べますと、正しく供養するという一般論はもちろんですが、それ以上に皆さんの「悲しみ」や「感謝」といった思いや愛情を、あの世の精霊に効率よく・より明確に伝える伝達方法として、僧侶の挙げるお経があり、お経の功徳が生者と死者の両者の癒しにつながるので、ペットに限らず供養には僧侶が必要になるというのが私の私観です。
 パートナーは私たちの家族であり、その感謝の気持ちを行動にして表すのが葬儀となりますので、その際に僧侶にお経を唱えてもらうことは、より感謝の気持ちを伝えたいという心の現われで、その気持ちが供養するのには一番良いことなのですけどね。
 また、ちゃんと供養してあげることで死を受け入れることができるようになり、ペットロスからの癒しになります。だから、僧侶を交いした供養の実践が必要だと私は述べたいと思います。
 
 そして、僧侶とは、生者と死者の間に立ち、両者の仲を取り持つ“コーディネーター”なのだと想っておりますし、宗教とは「生活のコーディネート」なのど私は考えています。
更新日時:
2002/07/11
   のど仏について…
 のど仏というと男性の喉仏を連想しますが、今回のテーマの“のど仏”とは、男性にある軟骨の出っ張りではなく、第二頸椎(軸椎)の“のど仏”のことです。
 この第二頸椎は男性にも女性にもあり、火葬したお骨を収骨する際に最後に納める習慣があります。
 ちょうどその形状が衣を纏った仏様が手を合わせているように見えることから“のど仏”と言われております。
 動物達の火葬をしていて実感したのだが、不思議なことに人間も、犬・猫も、ウサギやハムスターも、みんな同じ形をしているのです。
 大小の差はあるものの外見上の違いや、生態の違いがあるにも関わらず生命に共通する形状の骨である。
 この第二頸椎である“のど仏”は頭と体をつなぎ、首を回転させることができる生命の根幹を支える重要な役目をしており、人間と動物の間に違いはないと言うかのように存在していて、尚かつ仏様が合掌して座しているのである。
 心(精神)と体の中間に位置し両者をつなぎ止めている魂のように、頭と体をつなぎ止めている所に、仏様が手をあわせているのである。
 なんという不思議なことであろうか?
 お釈迦さんは、このお骨の存在を知ってか知らずか、「すべてのものに仏性が宿る」とは良く言ったものです。さすが、悟りを得た覚者(仏)ですね。
 人間も動物であり、ペットも家族であるという事に差はなく、人間と動物のために挙げるお経に差はない! 
 魂の鎮魂と生者の癒しのために読経する!
 という私の想いは、“のど仏”のように自然と手を合わさせるのです。
 私にとって非常にうれしい発見であった。
 
PS:余談になるが、頭蓋骨を支える頸椎のことをアトラスとも言い、この名はギリシャ神話に出てくる神の名で、頭と両手で巨大な天体を肩に担う姿から頸椎のことアトラスと命名したみたいです。
更新日時:
2002/07/11
   「悟り」と「差取り」…
 今回はちょっと僧侶らしく、私が初めてした法話についてお話しします。
 修行寺にいるときに新年の挨拶として、檀家さんの前で話したことなのですが、私が僧侶になって目指すものは「さとり」なのです。
 「さとり」と言うと、煩悩を滅却して安楽の境地に入るとか、世界の真理を悟り得るとか、を意味するでしょうが、私の目指す「さとり」とは「差取り」なのです。
 それは、自分と他人の個性の違いを認め、心の壁をできるだけ低くして、心や気持ちを共有することなのです。
 いわゆる「思いやり」とでも言うのが分かり易いかと思います。
 私は自分の事が大好きですし、大切にされたいと思っています。みなさんも自分の事が好きで、周りから大切にされたいとお思いでしょう。
 であれば、その大切な自分の自分だけではなく、心の垣根を取り払い他人の自分も自分同様に大切にしようということなのです。
 自分の自分と他人の自分の差をできるだけ取り除き、他者の気持ちを察し、共感できる心を養うのが私の目指す「差取り」なのです。
 これは人間同士だけではなく、人と動物、人と自然にも当てはまります。
 そして、私が人にも優しく、動物や自然にも優しい人間になることができたとき、この「差取り」は「悟り」になるのだと思います。
 
更新日時:
2002/07/11
   ペットのための最高の供養法とは…
 結論から先に言わせてもらうと、「心から供養してあげること」以外にありません。
 動物には宗教や宗派はありませんので、何宗であろうと、無宗教であろうと、どの霊園でも良いのです。
 霊園側から「こうしてあげれば喜びます」とか「そうしないと報われません」などのような営業トークに惑わされずに、感じの良い霊園、お参りしやすい霊園、人柄の良さそうな僧侶など、選ぶ基準はいろいろあるでしょうが、心を込めてしてあげることが最高の葬儀法であると思います。
 形にこだわらずに、自分のしてあげたいこと(必要ないこと思うことはしない)を行い、お互いの心が癒されることが大切です。
 どんなにお金をかけても、どんなに華やかにしても、心がこもっていなければ仕方ありません。
 料金や利便性で選ぶのもいいかもしれませんが、対応してくれる人・僧侶の感じの良いことが霊園を選ぶ重要な基準になると思います。
 それに越したことはないでしょう。
 私流の最高の葬儀法はありますけれども宗教論になるのであえれ述べませんが、無宗教であっても、宗派が異なっていても、僧侶のお経が異なっていても、想いは一つですので、自宗のお経や賛美歌だと思って聞いて頂ければいいと思います。日本語や英語があるように言葉が違っても想いは同じですからね。
 私のよく使う例えに「月」があります。月は日本から見るとウサギが餅つきをしているように見え、中国からはカニ、ヨーロッパからは人の顔というように、地域や習慣などによって見え方が変わりますが、月という本質は変わらないものです。同様に、供養の仕方や言葉が多少異なっていても、想いに変わりはないのです。
 してあげたいことをしてあげることが、亡くなったパートナーにとっての最高の供養であって、亡くなってからも愛しているよという気持ちを表現してあげることが嬉しいことでしょうね。
 
 ペットブームの追い風でペット霊園が増えておりますが、利潤のためだけではなく、最高の供養のお手伝いをするという奉仕の精神を忘れてほしくないと思います。
 民間・寺院経営を問わず、そこに愛がありますように!と祈りを捧げたいと思います。
更新日時:
2002/07/11
   死を否定する文化と肯定する文化…
 よく言われることに、「医者と坊主は相性が悪い」とありますが、性格的にというのではなく、文化の違いによるところが大きいのだと思います。
 医者というのは患者を死なせることに偏見があり、治療することばかりに関心がいき、癒すということへの関心を見失いがちなる“死を否定する文化”です。
 それに対し、僧侶というのは現生と後生の心のあり方に関心があり、心(魂)を癒すこと目的とする“死を肯定する文化”なのではないでしょうか。
 ゆえに医者と僧侶は相性が悪いと言われてきたのだと思います。
 この世での存在が終わりを迎えるにつれて、家族との愛情や絆を確認し、心身共に安らぎを与えることができるような状況が作られる事を、私自身もそうだが、お医者さんにも期待します。
 
 飼い猫を獣医さんに連れていって、入院した次の朝に亡くなった経験があり、その時に非常にイヤな思いをしたことがあります。
 それは獣医さんの責任ではないにしろ、獣医さんに診てもらってもダメなのなら、自宅でずっと見守りながら送ってあげたかったなと後悔の念をずっと抱いていたからです。
 でも、後悔や怒りの念は強いマイナスエネルギーを伴い、人生をマイナスの方向に転じてしまいます。それでは、亡くなったパートナーに申し訳ないから、死を肯定的にとらえ受け入れて、悲しみを乗り越え人生をプラスに転換することが、亡くなったパートナーに対する供養になるのではないかと私は思っています。
 
 「涙で洗われた眼(まなこ)は清らかで深い」という言葉があるように、それを受け入れることで、人生を深めることができるのです。
 亡くなってしまったという現実を受け入れるのは辛いでしょうが、愛するパートナーのすべてを含めて愛してあげて下さい。
 相手の容姿や欠点をすべて含めて、あるがままのすべてを愛してあげることが本当の愛であり、永遠に続く真実の愛になるのでしょうね。
 
更新日時:
2002/07/11

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