この前のお説教でこんな喩を聴きました。
7人家族でみんなの分のリンゴを買って帰ってきたところ、袋には6つしかリンゴが入っておりません。
さて、どうしますか?
どこかで落としのか、それとも入っていなかったのかと思いますよね。もしかしたら、お店で間違われたのではないかと思い、問い合わせたりすることもありましょう。
この行いは「自分が」ということからなるもので、自分のお金で買ったのだから、お店で1個間違っていようものなら文句も言いましょう。
では、同じく7人家族でご近所からリンゴをお裾分けしてもらい家族みんなの分をいただきました。
袋を開けてみたら6個しかありません。
さて、どうしますか?
1つ少ないと文句を言いますか?
1つ少ないから貰いに行きますか?
頂いきものですから、そんなことしないですよね。
1個少なくたってそれについてとやかく言わず、有難くいただきますよね。
少なければ分ければいいのですからね。
文句を言うものではありません。
自分で買ったとなると文句を言い、頂き物だと文句はない。同じく一つ足りないのに、受け止め方が違うのですよね。
ここで問題なのが「自分が」ということですよね。
自分で買ったものだから人と分け合えば少なくなったり、減ってしまうように思うものです。
でも、人から貰ったものであれば、素直に分け合うことができたりするのに、おかしなはなしですよね。
では、命はどうでしょう?
天から授かった与えられた命はどうでしょう?
命が自分で買った物であれば、ペットが自分で買った物であれば、その命の長さに文句も言いましょう。
でも、命は物なのですかね。
さらに、自分が買ったのですかね。
ついでに、本当に自分のものなのですかね。
そんな説法を聴きながら、いろいろなことを考えさせられます。
命が物でないのなら、交換もできませんし、不良品ということでもないので修理することもできません。
企業で生産された物でないから基準などというものは何もないのです。
ペットは自分の物かと言われれば、飼い主という世間一般向けのレッテルを貼っているだけで、ペットの命は私のものではありません。
ペットショップなでで出会いがあれば買ったものと思ってしまうこともありましょうが、出会いの場に対して費用を支払っただけで、命を買ったわけではないのですから、何歳まで生きるということに囚われるのはいかがなものか・・・などと思考がフル稼働して肝心な話を聴き損ねてしまいました。
肝心なことは、天から頂いたこの命、この姿、この環境なのですから、これらに文句を言わず、不平を抱かず、有難く頂戴して、美味しく味わうべく幸せになればいいということですよね。
今はすべてに感謝しておりますが、昔は自分の容姿や家柄など気になったり、人の家が羨ましく思えたりしましたね。
こんな容姿であれば女の子にモテるのにとかね。
もう少し背が高ければ…などね!
今は背が低いお陰で、容姿がこの程度で、生立ちがこれでよかったとすべてに感謝していますから、不思議なものですね。
「自分が」という囚われかた離れると、自然と「お陰様」という言葉に変わるものです。
「おかげさま」という言葉が自然と言える人になれるといいですよね。
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