今日は長福寺にて合同供養祭を行いました。
お寺にお集まりしていただいた方々、都合で参加することはできないけど読み込みという心でお集まりしていただいた方々、お手紙という気持ちを届けて参加された方々と共にご供養・ご祈祷させていただきました。
皆様の気持ちがとても嬉しく思います。
仏に仕える者として、仏さまからの感謝を代わりに申し上げます。
ありがとうございました。
生という姿があるときには人は見返りが分り易いから手厚くしますが、死という生の姿が見えにくいときには人は見返りが分りづらいのもあって薄くなるものです。
ご先祖に対する供養というのも同じです。
そういうことが多くある中において、供養してあげたいという感謝の想いが続いている方々がいらっしゃることに頭が下がります。
そんな人々と関係を結べたペットたちを幸せ者だと思います。
今の自分があるのは誰のお陰かと思えば、生んでくれた祖先あるお陰だし、支えてくれたペットたちのお陰なのですから、その恩に報いるのが感謝報恩の供養というものです。
それができるかできないのかは、相手の姿があるかないかではありません。
相手が目には見えづらいけれども、この身がある私たちの思いとして表明することが大事なことなのです。
そのような気持ちがある上で日々を生きる者と、そのような気持ちがないで日々を生きるのとでは、人生は大きくことなる歩みとなります。
見えない者への想いがある人は、人が見ていないところでも良き行いをしているものです。自らが主体となって心に随って生きている人の姿です。
見えない者への想いがない人は、人が見ていなければどうでもよく、人の前では良き行いをするものです。自我が主体となって相手の心が気になって生きている矛盾した人の姿です。
ご先祖やペットたちへの供養の仕方は心の在り方でもあり、相手の姿があるなしではなく、自分の心があるのかないのかというとても大きな意味合いを持つのです。
供養という感謝の気持ちをもらう仏さまや守護者だって、想いある人を護るのと、想い薄い人を護るのとでは、多少の異なりがあっても致し方ありません。
世の中の道理というものは、ちょっと不思議な作用をするようで、目に見えない者へ施せる者には目に見える形での施しが与えられ、目に見える者へしか施さない者には目に見える施しが与えられないものです。
供養するという感謝の気持ちは、供養祭や供養の節目だけではなく、いつでもできるものですからね。
日々の心がけが日常となります。
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