先日、子供3人を連れて電車に乗った時のことです。
車内は空いていたので、子供たちとみんなで座っていたのですが、都心に向かうにつれ混みあってきましたので、長男を立たせて席を空け、老婦人に席を譲るために次男を立たせて声を掛けました。
すると、次男に
「まだ、お婆さんでないから、どうぞ座っていていいのよ」
と言うのです。
次男はキョトン?としていました。
それなので、私も一言添えて
「2つ先で降りますから、どうぞお座り下さい」
こう言ったのですが、
「まだ健康なので子供を座らせてあげて」
と言われたのです。
そう言われたので、
「すみません。ありがとうございます」
と言って次男を座らせました。
さて、ここで問題となった心をちょっとのぞいてみましょう。
次男は5歳ですが、お婆婦人に席を譲ろうとしました。(私に言われたにしても)
お婆さんは、年に見られたくないのか、子供に譲ってくれたのかは判断できませんから、行為だけを見ることにします。
でも、善いことをしようとして断られた次男にしては、何のことやらチンプンカンプンですよね。
私からは「立ちなさい」、老婦人からは「座りなさい」では、何をしていいのか迷ってしまいます。
だから、私が一言添えるのですが、それでも譲られたので、私は「席を譲ること」という行為を、相手から譲り受けることにしました。
これで会話と行為は成立しますが、私が善意の押し売りをしていたら、「譲るvs譲る」という大人心が更にぶつかり合い、行為が成立しなかったのでしょうね。
若く見られたかったのか、子供に座らせてあげたかったのかは、判断に困るところですが、行為だけを見ると、譲られたことを、断ったことになります。
このままだと、行為が完結しませんから、私は断られたのではなく、さらに譲られたこととして、感謝を述べて受け入れることで行為を成立させたのです。
何か忘れてはいませんか?
大切な何かを?
この時の「譲る(与える)」という行為は、誰かに何かをするという大人の心です。
そして、「受ける(もらう)」という行為は、誰かから何かを受け取るという子供の心です。
若く見られたかったという前者の場合はともかく、大人は大人のように振舞うもので、子供は子供のように振舞うものと囚われ、何かを与えるという行為は強者から弱者へ、大人から子供へ、という囚われがあります。
大人であれば、大人のように振舞うのですから、本来であれば、譲られた善意を受け入れてあげることが、子供に対する大人の在り方なのではないでしょうか。
子供であっても、大人の心を示しているのですから、それを大きな心で受け止めて、「若く見られたい・譲ってあげたい」ではなく、大人であっても素直に子供心で受け入れてあげるということが、真の大人心というものです。
今回は、このような場面でしたが、みなさんも日常で、このようなことしておりませんか?
相手に大人心を示されたら、素直に子供心で受け入れ返すことです。
それを、変に大人心で返してしまい、ぶつかることありませんか?
素直という、子供たちが持っている心を、忘れてきていませんか?
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