よく使われる言葉に「心を磨く」とありますが、心ってどうやって磨くのでしょうね。
なんで、こんなことを言っているのかと言いますとね。
先日、会社の男性用のトイレの便器が汚れていたから、綺麗にしてから座って思い出したのです。
多少は気分悪いですが、何で人が汚したことを掃除することができるようになったのかなぁと思いました。
サラリーマンの時には、するにしても嫌々ながらであったり、そんなことできなかったような気がしますが、今は自然にできるのですよね。
お坊さんだから?
ん〜確かに、あまり囚われなくなっているからかな。
綺麗や汚いは自分の心の有り様が左右することで、目の前の事物には何でもないことだからかな。
汚いのではなくて、汚いと思うことが汚いのであって、すべては本来「空」であるかな。
汚いのではなくて、綺麗と見比べている自分があるからかな。
汚した人は気が付いていないのだろうし、
次の人も気にしなかったのかもしれないし、
私だけがそう思っているのかもしれないし。。。
などなどと、用を足している時に思っておりました。
それで思い出しことですが、修行寺で便器を磨いている時の心境の変化を思い出したのです。
最初頃は、便器の掃除が汚い気がしていて、道具を使って適当に掃除をしていた、そんな心境の掃除は再度のやり直しを命じられていたのですよね。
次に、綺麗にすればいいんだろ!というような気持ちで便器の掃除をしていた、そんな心境の掃除もやり直しを命じられておりましたね。
次に、技術的に掃除が上手になっていって、これでいいだろう!という心境の掃除は、OKはされるものの、あまりいい顔されなかったような気がしましたね。
次に、人が掃除した後に汚れを見つけると、以前の私が抱いていたような気持ちで掃除しているんだろうなぁ、と解るようになっていたのですよね。
それからは、便器の掃除をするときは、いつも感謝しながらするようになりましたね。
自分が汚いと思っていることを、文句も言わずにいつも受け止めてくれる便器に、「いつもご苦労様です」「いつもありがとうございます」という気持ちで掃除するようになってきましたね。
さらには、便器を掃除する時には自分の心と真に向き合うようになり、便器と向き合うことが楽しくなってきて、自ら進んで便器を掃除するようになってきましたね。
便器を磨くことは自分の心を磨くためで、そんな掃除をさせてくれるという機会に感謝できるようになってきました。
それからは、修行寺で便器を磨かせたら、私の右に出る者はいないくらいになりましたね。
便器を磨くことは心磨きの機会だったのですね!
心を磨くと言いますと、本を読んだり、人の話を聴いたり、考えたりして、そんな気になりますが、頭でわかってもダメなのでしょうね。
頭は頭ですからね。
じゃぁ体で分かればいいのかと筋肉トレーニングしてもダメですよ。
心は筋肉でできておりませんからね。
心を磨くには、行いを通じて、心に向き合うことですよ。
心を磨く機会は身の回りにいっぱいあります。
人生には多くの出来事が起こり、心を磨く機会はいっぱいあります。
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