つれづれなるままに
気まぐれな日記ですから、日記ではないのかも。。。
思ったこと、感じたことを、さらりと書いてみます。
 
だから、さらりと読み流してください。
(特に誤字脱字をね!)



 3月23日   わかるまでわかんない
最近のうちの子供たちの流行は“勉強”で、みんなでそれぞれ勉強しております。
上の子はチャレンジ3年生を、真ん中の子はチャレンジ1年生を、一番下の子は平仮名と漢字のお勉強を、楽しそうにして遊んでおります。
 
よく、わからないことを聞かれたりするのですが、どこがわからないのかを聞くと、本人はどこが解らないのかが解らないのです。
そうなんですよね。
解らない時って、どこが解らないか聞かれても、どこがではなくて、全部含めて解らないのですよね。
 
でも、そんな解らないことをあれこれと考えていると、あるときに、「そっかぁ!」と閃くことがあるんですよね。
 
今までまったく解らずに、ずーと同じところをうろうろしていたのに、何かがきっかけになって瞬間的に閃いて、今まで解らなかったことが嘘のように解ることがあります。
 
どうして、こんな簡単なことが解らなかったんだろう?っていう経験ありますよね。
 
そうすると、今まで何をしていたんだろうって思いますが、それは、解るために必要なことをしていただけで、何もしていなかったのではなく、解るようになるための準備期間だったのですよね。
 
この間は進歩がないように見えるから、つい諦めてしまいがちですが、諦めずに、明らかにしようと継続していると、溜めてきた力が開放されて、一気に高みに昇り解るようになるんですよね。
 
迷っていたり、悩んでいたり、なぜだか思ったりしている時は、解るための時間であって、解らない時間を大切にしなくてはなりません。
 
わかるまで、わからないのですよ。
 
わかりたいなら、わからないでいいじゃないですか!
 
わからないことを受け入れたら、解るときが訪れますよ。
 
 

 3月19日   あきらめる
「あきらめる」というと「諦める」という漢字のあきらめるを思い浮かべますよね。
 
よく「もう諦めます」なんて言うことがありますが、諦めると言いつつ諦められないのが私たち人間というものですよね。
このように言う時って、とても消極的な気持ちから言いますが、仏教的な「あきらめる」とは、本来積極的なもので、断念することや放棄することではなく、物事の道理を明らかにするという意味であり、原因や結果を明らかにするということなのです。
 
原因や結果を明らかにしてゆき、物事の通りわかってくることによって、なんでそうなったのかがわかりますから、もう迷うこともなく、それにしがみ付いて執着することがなくなるから、自然と諦めることができるのです。
 
この流れが取り上げられるのではなく、最後の諦めるという言葉だけが先行してしまい、「あきらめる」という言葉が消極的な意味での「諦める」として使われることが多く、本当の「諦める」とは「明らかにする(明らめる)」から「諦める」という積極的な意味なのです。
 
あなたが諦めようとしていることには、本当の自分を見るめるべく大切なことなのですよ。
それを断念してしまっては、また、同じようなことに悩むでしょう。
それを放棄してしまっては、また、本当の自分を蔑ろにしてしまいますよ。
 
積極的な諦めるができるようになって、悩んでもさらりと考え、迷ってもさらりと決めて、人生を明らかにしてゆきたいものですね。
 
 

 3月16日   食という字
先日、NHKの深夜の再放送で、食に関する番組を見ていました。
その中で、とっても印象に残っている言葉がありました。
 
『食という字は、人を良くすると記す』
 
まさに字の如くで、食というのは生物理学上でも、精神衛生学上においても、人をより良くするもので、食べることで健康にもなり、命を頂くことで命を学び、人が良くなるのですよね。
 
その食について、私たちはおろそかにしていることありませんか?
 
時間がないからと急いで食べたり、食を抜いてみたり、ダイエットのためと偏食したり、補助食品やサプリメントに頼ったりして、きちんと食べるということをおろそかにしていませんか?
 
それでは、食べるという物理上の行為だけで、人を良くするという食べるということにはなりませんよ。
 
修行寺では、戒律が厳しく、食べるものも制限されますが、命を頂くということから、食にまつわる作法が詳細に決められていて、修行で一番苦労するのは、食事の時間と言っても過言ではないほどでした。
 
自分の食べる分は自分で托鉢し、頂いたら物を余すことなく料理し、お経を捧げて命に感謝し、食べる作法に則っていただきます。
その中には、すべてを自分の命にするのではなく、ごく僅かを残して、自然に生きる他の命たちにも御裾分けすることもあります。
 
禅宗の修行というと、真っ先に座禅やお経を思い浮かべますが、修行とは生きることであり、与えら得た生を活かすということは生活そのものでありますから、生活することを修行するのです。
だから、食べるということは修行で、修行するのは人としてより良くなるためですからね。
この言葉を体で知っているだけに、とても印象残りました。
 
食べるということは、命に直結していることですから、これを大事にしないということは、自分の命も、与えてくれる命も、大切にしないということで、生きるということを否定することにもなるのです。
 
もちろん、食べることをしなければ死ぬように、食べることを否定することは死を意味するのです。
 
自らの生命を活かすために、何を食べるかということも大切ですが、どのようにして食べるかという作ることや、誰と食べるか、どのような気持ちで食べるか、などということから、食は多くの学びを頂く者に与えます。
 
毎日、三度の仏の教えを学ぶ機会があるのですよ。
私たちはね。
 
前回の日記の「仏法値うこと希なり」ではないですが、気づいていないだけなのですよね。
とっても有難いことに。
 
他の命を頂くだけでなく、有難い命の教えも頂くつもりで、食事の前には“いただきます”と言いましょうね。
 
人が良くなりますよ!
 
 

 3月14日   未来からの使い
うちの子供たちはドラえもんが好きで、毎週金曜日を楽しみにしております。
そのドラえもんの中で、未来ののびた君がやってきて、お母さんに叱られている子供時代の自分を見て懐かしみ、怒られていることも幸せだったと思うことがありました。
 
その時は、分からないのですよね。
 
私もそうですが、離れてみて知ることあり、失ってみて知ることありで、そのときには分かりませんでした。
 
だから、今度は変わるようになろう!って決めて、後悔を受け入れて今を生きるようになりました。
 
愛する者を失って、愛する物を失って、その大きさや有難さに気づくことが多く、共にある時には気づきにくくて、共にある時には蔑ろにしがちで、後になって振り返ってみると、いかにその時が幸せだったことかと思いますよね。
 
「修證義」という経典の中に「人身得ること難し、仏法値うこと希なり」という一節があります。
原文のままから訳すと、人として生まれかわってくることも難しいのに、まして、仏の教えに会うのはさらに希であるということになりますが、このままでは少し異なってしまいますので、補足しますね。
仏の教えである仏教に会う人が少ないというのではなく、仏の教えである仏法にあっているにもかかわらず、会ったことに気づく人が少ないという意味になります。
 
そうなんですよね。
有難いことに会っているのですよね。
ただ、それに気がついていないだけで。
 
怒られている時には幸せだなんて思うことができないことも、離れてみて振り返ると、幸せなことであったと思うのびた君のように、私たちも毎日、会い難き仏法に会っているのです。
 
いろいろなことに感謝しなくてはなりませんね。
 
未来の私がやってきたら、同じことを言うでしょう。
そう思ったので、恥ずかしながらホワイトデーということもあり、母親に簡単なプレゼントと感謝の言葉を贈りました。
 
よく言いますよね。
「親の有難さは、傍に居るときには分からないもの。離れてみて気づくもの。親になってみて気づくもの。」
 
昔から言われていることなのに、未来からやってきた使いのようで、不思議です。
 
 

 3月9日   子供に戻りましょう
昔から言われる言葉で、
『迷った時は、子供に戻れ』というように、素直になることを忘れずにいたいですね。
 
子供には苦しみはあっても悩みはなく、制約はあっても悩みはなく、悩みや迷いがないのですよね。
その時その時に、素直に心を表していて、その場ごとに感情の処理をしているのです。
 
私たち大人というものは、素直に生きることを忘れ、素直に生きることを我がままであることや、素直であることを自己中心的なことと思っていて、他人からどのように見られるかと偽善的な生き方をよくします。
 
そうしているうちに、いつの間にか、本当の自分と掛け離れてしまって、気がつくと、自分のことが嫌になったり、ストレスになったり、自信を失ったりしてしまうことがありますね。
 
小さな悩みはその日のうちに、小さな迷いはその日のうちに、その場その場で、自分の意思を伝え、相手に対する思いやりを忘れずに、素直にできる勇気を持ちたいものですね。
 
迷った時は子供に戻りましょう。
悩んだ時は子供に戻りましょう。
 
あなたの中にも子供の心があるはずですよ。
そう思われまいと、似合わない服を着て、傷つきたくないと、厚い鎧を身に纏い、頭で思っている大人を演じているだけで、弱くて繊細な、小さなあなたがいるはずですよ。
 
弱くて小さいことを認めると、強くて大きくなりますよ。
大人ですからね。
 
たまには子供に戻りましょう。
あなたが保護している、子供のあなたを外に出してあげましょうね。
 
子供は外に出してあげないと、大きく育ちませんよ。
 
 

 3月4日   レスキュー隊
山からの水も少なくなってきて、山からの水がなくなってしまい、消雪できないので雪かきをしておりました。
 
薄着でしていたもので、少ししたらお腹が冷えたのか、急にトイレに行きたくなりました。
そして、家のトイレまでは間に合わないので、お寺のトイレに駆け込んだのですが、座ると、トイレットペーパーがありません。
(すみませんねぇ〜こんな話で)
 
大声で「ちょっと〜誰か〜」と叫ぶと、次男がやってきましたので、トイレットペーパー持ってきてと頼みました。
すると、「はい!わかりました!」と直立敬礼で挨拶をして去ってゆき、「助かったよ〜ありがとうね。」と言ったのです。
 
すると、ちょとふざけながら「ありがとうではありません。レスキュー隊に、ありがとうはいりません。助けるんだもん!」と去ってゆきました。
 
私は考えました。
 
すごいですよね。
ありがとうはいらなく、それが当たり前!と遊びながらにできるんですからね。
 
お寺の子ぉ〜
うちの子ぉ〜
と思いました。
 
私たち大人は、誰かに何かをしてあげたときに、お礼の言葉などいらないと思っておりますが、ないとないで、ちょっと気になったりするんですよね。
 
子供の素直さからは、多くを学びますね。
 
私の心を救ってくれる可愛いレスキュー隊が、我が家にはいっぱいいて、日々支えられています。
感謝です。有り難いなあ。
 
 

 3月1日   仏の物差し
私たちはよく、いろいろなことに比較しますよね。
 
生まれた時は、体重や身長、歩き始める時期などを他の子と比較するし、学校に入ればテストの点数に偏差値と学力を比較し、さらに進学すると学校や会社を比較し、収入などいろいろと他の人と比較してしまうものです。
 
そうして自分で勝手に他人と比較しては、その差に自分自身を苦しめてしまったりすることが多いですよね。
自分という存在を認めるためにも、比べる誰かが何かを買えば、それを少しでも上回る物を買ったり、誰かが何かをすれば私しもと同じことをしてみたり、同じであることや、上回ることをしてみては、比較していることがありますよね。
 
競争社会で育ってきて、比較して上回ることでしか自己の存在を認められないのですかねぇ?
 
私たちの使う文房具の定規には目盛りがあり、それがどれくらいのものか計ることができます。
計るだけでいいのに、私たちはつい比べてしまいます。
同じように私たちの見る目にも目盛りが付いていて、計ることができるのでついつい他人と比較してしまいます。
身長や体重、学歴や収入、容姿など比較してしまいがちです。
 
でも、仏さまの使っている物差しには目盛りが付いていません。
目盛りがないということは、この定規では測ることができないのですよ。
そう、仏さまは比べようとか、比較しようとかせず、測ることなく、その者の存在を認めてくれるのです。
測れない物差しだから、みんなが同じになり、あるがままのそのままの存在そのものを認めてくれるのです。
 
このような目盛りのない物差しが、その身に備わるといいですね。
 
その物差しは真っ直ぐでしょうから、私たちが道を誤った時や、生きる姿勢が悪い時に、そっと添えてくれて、教えてくれることでしょうから、起こる出来事から学び教わると、仏さまの物差しがその身になりますよ。
 
 


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