つれづれなるままに
気まぐれな日記ですから、日記ではないのかも。。。
思ったこと、感じたことを、さらりと書いてみます。
 
だから、さらりと読み流してください。
(特に誤字脱字をね!)



 7月28日   猫と門
今日は天気がいいので、駅から歩いて街並みを見ながら帰ってきました。
そんな時に、塀の上を猫がゆったりと歩いており、車が通っても、私が近寄っても、焦ることなく優雅に歩いています。
塀の先にある数センチの幅の門も、気にすることなく前を向いたまま自然に歩いて渡ってしまいました。
 
すごいですよね。
足の幅くらいしかないのに、何事も無かったかのように渡ってしまうのですからね。
 
私たちであったらどうでしょうね?
テレビや映画などでありがちなシチュエーションで、渓谷に架かる一本橋を渡るときに、先に渡っている者が後ろの怯えながら渡ろうとする者に、「下を見るんじゃない」などと言って、下を見てしまったために、怖くなって足がすくんでしまうことがあります。
 
この場合は、目的地を見ていると平気なことが、そこから目を逸らして下を見るから、急に怖くなったりするのですよね。
 
まぁ、猫にとってみれば、こんな感じの生死を分けるようなことではないのでしょうし、落ちたってたいしたことではないのでしょうが、目的地を見ながら、その手前にある障害をすんなりと渡ってしまう様子を見て、私たちの人生ではどうなんだろうか?と考えてしまいました。
 
私たちが目標に向かって人生を歩む時、必ずと言って障害があるものです。
そんな時、それが猫にとっての門と同じようなくらいのことで、生死を分けるようなことでもないにもかかわらず、私たちは失敗したらどうしようとか、足を踏み外したらどうしようとか言って、足がすくんでいることがよくあります。
 
猫にとっての塀くらいの高さで、落ちたら、また上がればいいくらいの出来事であっても、私たちは、失敗したらどうしようとか、足を踏み外したらとか、人が見たらとか、などと言うのですよね。
 
失敗したら、また挑戦すればいいじゃない。
足を踏み外したら、また上ればいいじゃない。
恥をかいてもいいじゃない。
 
目的地に行きたいのでしょ。
行けばいいじゃない。
 
やってみなければわかりませんよ。
 
足がすくんでいるあなた。
あなたはどこと見ていますか?
 

 7月23日   お手伝い
今日は長女(4歳)と二人で留守番でした。
私が外で作業をしていると、
長女「お父しゃん、外で何してるの?」
私「外で、お仕事」
長女「私もお手伝いする〜」
って外に出て来ました。
 
長女「お父しゃんは、それをやっていてね。私はお花にお水あげるからね」
私「はい。わかりました。ではお願いします」
 
こうして最初のうちはお花に水をあげる様子を見ていたのですが、途中から作業に戻って様子を見ながらしておりました。
一通りお水をあげ終わったようで、「お水終わった〜」と私の元に来ました。
ちょうど作業も終わったので、一緒に家に戻ることにしました。
 
そうすると、花壇のお花見水をあげるだけでなく、コンクリートの隙間から生えている雑草(名前はちゃんとあるのでしょうけど)にも水をあげた後があるのです。
 
それも、あちこちに。
私はとっても嬉しくなりました。
 
私「なっちゃんはここのお花にもお水あげてくれたの?」
長女「うん!」
私「偉いね〜。きっと、お花さんがありがとうって言っているよ!」
長女「ね〜お父しゃん。このお花どんな花が咲くんだろうね?」
私「どんなお花だろうねぇ。なっちゃんがお水くれたから、きっと可愛いお花が咲くんじゃないの」
長女「そうだね。じゃぁ、お花が咲いたら、お母さんにあげよう!」
 
いや〜とっても素敵なお手伝いでした。
 
また、私にとっては仏教を学ぶ機会でもありましたね。
先日の日記に記した「無分別」ですよ。
 
純粋な子供の心は、差別をしないのですよね。
その心を忘れないでねっ!
 
 

 7月21日   関心屋さん
私たちの目は外に向いているため、何かといろいろなものを見ています。
たとえば自分のことにはなかなか目を向けませんが、自分のことを棚に上げて、人の欠点を見つけては、ついつい人のあら探しをしてしまうことがあります。
 
人を見る目があっても、自分を見る眼がないんですねぇ。
 
静かに自分を見つめることができる人は、自分の至らないところを見る眼があるから、内省して改善することができます。
でも、なかなか静かな時間を持つこともなく、自分を見つめることも少ないものですよね。
 
でも、人のことになるとよく見えるものです。
 
だから、他人を見て我が振り直せはいいのですよね。
そんな時に、他人のあら探しばかりしていないで、他人の良いところを見つけてみてはいかがでしょう。
 
私は出会う人それぞれに美点を見出し、その良いところを自分のものにしようと思い、出会う人に関心を寄せています。
そうして、他人に関心を寄せて、良いところは自分も真似して学び、良くないところは、そうなってはいけないなぁと反面として学び、いつも自分というものを創造するようにしております。
それを精進とも言うのでしょう。
 
みなさんも、他人の欠点ばかり見つけるのではなく、他人の美点を見つける関心屋さんになりませんか。
 
それとも、あなたは他人の欠点を見つけるのが上手な心の冷たい寒心屋さんになりますか。
 

 7月18日   無分別
先日、無分別と記したのですが、普通は分別があることの方をよしとしておりますよね。
私たちが普段使っている分別とは、常識があって、慎重な人をいい、「あの人は分別のある人」などと言うように、いい意味で使われております。
 
ですが、仏教でいう「分別」とは、私たちが日常で使っている「差別」であって、分別とは差別的なこととなり、「差別がない」という意味での「無分別」の方が、仏の視点であり、僧侶としての自由な生き方を示す、いい意味となります。
 
私たちの社会では数字に囚われることが多く、私たちは、1より5は大きく、5は10より小さいという概念の世界に生きております。
そうして、1と5と10とを差別して、それに囚われいるから、1より5、5よりも10というように差別・比較していると、より多くを求めては苦しみ、持っているにも関わらず比較しては少ないと嘆く、自ら息苦しい生活をしているものです。
 
でも、無分別という仏の眼差しでは、1には1の役割があり、5には5の役目があり、10には10の意味がある、というように、それぞれが、そのまま認められており、多い少ないというような比較することはなく、ありのままを見ます。
こうして、それぞれに意義を認めているから、比較することなく、それに囚われることなく、清清しい生活ができますよ。
 
そうした差別を取り除いた心は、自由であり、囚われることなく、物事をありのままに見ることができ、おおらかに生きることができます。
 
分別ある生き方は良識的な生き方でありましょうが、差別ある窮屈な生き方でもありますので、たまには、『無分別』の差別や比較をしない生き方をしてみませんか。
 
きっと、今まで見ていた世界が変わりますよ。
 

 7月15日   猫の手帖
先日、「猫の手帖」という猫の雑誌に掲載されました。
タイトルは「平成猫バカ列伝」というコーナーに、我が家の愛猫ラブちゃんと、大好きな雑誌で、普段から読んでいる『猫の手帖』に、ようやく載ることができました。
 
念願が叶ったという感じですね。
 
掲載されて嬉しいものの、お寺での寺猫たちとの写真では、うちのボスであるクロちゃんが後ろ向きで写真に写っていて、尻尾を上げているものだから、恥ずかしげも無くお尻が丸見えで、どーもそこに目がいってしまいます。
(きっと気になっている方は他にもいることでしょう。)
 
でも、それが自然なことなんですよね。
 
私たちの社会では、隠すべきことなのでしょうが、動物たちの社会ではいたって普通のことであって、なにもおかしなことではないのですよね。
 
そんな時に、気が付きます。
 
普段、私たちは多くの物事について分別していて、比較や差別をすることにならされていて、分別しないであるがままを見ることを忘れていることを。
 

 7月12日   無宗教
よく、「私は無宗教ですから」というような言葉を耳にしますが、みなさんは、本当に無宗教なのでしょうか?
 
近年の知識人と呼ばれるような方々には、無宗教であることを、あたかもインテリの証しでもあるかのように思い込み、宗教を持っていないことを誇らしげに語ります。
まぁ、これは日本だけで通用することであって、世界にでたら通用しないことなんですけどね。
世界では、人間というものは何らかの宗教をもって生きていると思われておりますから、無宗教であることは、私は人間ではないのですと、平気で言っているようなものなのです。
 
この国でのインテリが語る無宗教には、無宗教であること=客観的かつ冷静な人物、というようなことを見せたいがためのものでもあり、自分を本当以上に見せかけようとする計算が裏にあるように思われます。
まぁ、宗教というものは、そもそも人間臭いもので、巷に蔓延るものはさらにお金臭いものですから、自己のイメージを保つにも無宗教としていたところが都合いいでしょうからね。
それにつられて、私たちまでもが普通に無宗教ということを言ってしまっています。
 
人が生まれれば神社でお参りし、人生に詰まれば占いをし、キリスト教でもないのに各地で盛大にキリストさんの誕生を祝い、そのすぐ後には翻って神社で初詣をし、人が亡くなれば仏教で葬儀をしているお国柄ですから、無宗教というよりは、信仰心の薄い多宗教なんで、無宗教ではないんです。
ただ、比重的に言っても、どれもどれなんで、私は無宗教ですって言っちゃうんでしょう。
 
実は、無印良品が無印と言いながら、一つのブランドになるように、無宗教ということも、この国ではブランドの一つになっているのでしょうね。
 
ちなみに私は、いろんな教えが好きな仏教者(ブッディスト)で、囚われの無いことを宗する禅者でありたいと思っています。
 
無宗教であろうが、宗教があろうが、どっちだっていい、幸せに生きることができれば、あろうがなかろうが、それでいいですよ。
ですが、辛い人生の時を支えてくれる宗教または、信じる何かがあれば、人生というものをより幸せに生きることができるとは思いますよ。
 
 
そうそう、ちょっと前の話になるのですが、道を歩いていると、外人さんに声を掛けられて道を聞かれました。
駅までの道を教えて去ろうとすると、その後にも話しかけてくるので、丁寧に応対していたら、だんだん教会に来ませんか?みたいな勧誘になってきたので、帽子を脱いで、坊主頭を指差して、
「I am ブッディスト thank you goodbye」
と挨拶して去ると、オーッ!としていました。
 

 7月7日   言ってどうなるの?
先日、JRの信号故障により、三鷹駅構内ですし詰め状態となり、前にも進むことができず、後に戻ることもできない状況下におりました。
 
そんな状況でしたから、エスカレーターから上がってきても降りる場所などなく、人の悲鳴があがり騒ぎになりました。
その前から、近くの人が大声で「エスカレーター止めろ〜」と叫んでいたのですが、構内の駅員はそれどころではなかったのでしょう。
 
方や、改札窓口には乗客の応対に追われた職員が数名おりましたが、ここで突き詰めている人たちは、たぶんですが、状況説明やどうしたらいいのか、ということから、どうしてくれるのかという文句を言っているのです。
気持ちは分かりますよ。
私だって、そのせいで予定に遅れたり、予約していたチケットが無駄になったりしますからね。
でも、言ってみたところで始まらないのです。
 
同じ駅構内で、距離にして十数メートルのところで、言ってもどうにもならないことを言うものあれば、言ってどうにかなることを言うものがあります。しかし、それを聞くものがそれらを聞き分けなければいけないのですが、駅職員はすべてに応対したために、事故が起こりました。
 
人としては、聞き分ける耳を持ちたいものですね。
僧としては、分けることなく聞く耳を持ちたいものですね。
 
 
そうそう、駅構内は信号故障に、すし詰め状態に加え、構内事故となり、入構制限されてしまい、もうどうにもなりません。
それで、さらに文句を言う人がおり、駅はいったいどうなっていることやら…という感じでした。
 
私は仏教者ですから、言っても仕方の無いこと、言ったところでどうにもならないことは、じっと我慢するだけです。
状況が変わることを信じて待つだけです。
これは仏教の教えです。
それは、ただ耐えるだけなんですけどね。
 
仏教では諸行無常で変わらないものは無いという無常が教えにありますから、このままの状況もずっとこのままではないでしょうから、それまで黙って待つことにしておりました。
 
ただ耐えるということも大事なんですよ。
言いたくなることはいっぱいありますけどね。
駅員の応対とか、アナウンスの有無とか、いろいろ駄目なところが目立ちましたけどね。
注意して次回に活かしてほしいこともありましょうが、それなら後で言えばいいことで、今は今しかできないことをすればいいのです。
 
 
きっと、あなただって、同じなんですよ。
同じような状況にあったら、自分だけは違うとお思いでしょうが、同じなんですよ。
 
誰しも誰かに迷惑を掛けて生きているということはね。
それが何かは違ってもね。
 
だから、駅員に詰問するような人を見ると言いたくなります。
許してあげなさいな。とね。
 

 7月4日   気をつけて
先日、駅の改札で女性同士の別れ際の挨拶に、「じゃぁ気をつけて」と言って、見送る様子を見ていて、私もよく使いますが、気をつけなければならない世の中なのだなぁと、切なくなりました。
 
少し前まで、日本は水と安全はタダの国と言われていたのに、一部の地域では水が足りず、一部の地域では水が多すぎ、栃尾では近所の方(いつもお寺に野菜をくれるおじいちゃん)が大水で流されて亡くなりました。また、安全ということについても、都会も田舎もなく、殺人事件はあちこちで起こっています。
 
いったい?どうしたことなのでしょうね?
 
自分を護ろうとすることは善いことなのでしょうが、それが行き過ぎるとぶつかり合うことになります。
正義と正義。自由と自由。
いつもこれで争いが起こり、不幸な出来事が引き起こされます。
 
そこに、相手を思いやる心があったなら…
 
ん〜宗教という教えの中には、いっぱいそういうことがあるのに、その教えが行き届いていないんだなぁ。
どの宗教にもあるのに、実践している者が少なくなっているんだなぁ。
 
わいせつな聖者に、悪徳な僧侶、汚職の公務員、貪欲な政治家、机上の教師、などなど、挙げていれば限がありませんが、みな口では誰だって正しいことを言えるのです。
ただ、そんなことは分かりきっているのですが、行っている者があまりに少ないのです。
 
正しいことを行うことは大事なのですが、その正しさに偏りがあれば、その正しさは凶器にもなりかねます。
正しいことを行おうと思う者は、いつだって自分の心に気をつけなければなりません。
 
自分で自分を気をつける。
それは、この身を護ることだけではなく、この心にも気をつけることが必要ですね。
 
外側を気をつけなければなりませんし、内側も気をつけなければなりません。
何事も気をつけましょうね。
 

 7月1日   明かり
最近は、新潟に帰ると部屋のリフォームで、あれこれとお部屋を整えております。
もう、僧侶というよりも大工ですね。
師匠と同じように、私もできそうなことは何でも自分でするものですから、電気工事(本当は許可がないとダメ)から基礎工事、部屋のリフォームと何でもします。
というか、お金がないから自分でするのかな。その方が安上がりですから。。
 
我が家もそうですが、公共の場でも同じで、
ようやく地震からの復旧ですよ。
 
居間の工事をしている時に、コンセントを再構築していたら、誤って触れてしまい体に電気が流れてビリビリくるし、天井の電気をしていたら、誤って接触して花火が飛び散るし、もう笑っちゃいます。
それで、ブレーカーを落として作業したら、電動ドライバーは使えないし、暗くて足元の物を踏んで痛い思いをするしで、愉快な大工さんをしていました。
 
ああ、そうそう。
そんなことはどうでもいいんです。
 
居間のリフォームしたこともあるのですが、明かりを新しくしたこともあり、部屋がとっても明るくなりました。
そこから仏教なんです。
 
私たちは家に帰ると部屋の明かりを普通に点けます。明かりを点けると、どこになにがあるかがわかりますが、明かりを点けない暗い部屋では、いつも過ごしているものの、手探りで進み、部屋の物に当たりそうになったりするものです。
私たちの心というものも、同じなのではないのかなぁ。
心をいつも自分として過ごしているにも関わらず、心という部屋の中を灯すことがあまりないから、心の中に、どんなものが、どこにあるのかわからず、人生を手探りで進んでいるのではないのかなぁ?
 
心という部屋を明かりで照らせば、どこに何がある分かりますし、ここには何が足りないのかが分かります。
そうなれば、ぶつかることもないし、痛い思いをしないで済みますし、足りない物があれば過ごすには不便ですから、何とかしようと思い改善しますよね。
そうして心を照らせば、心は安らかになり、人生は明るくなるのではないですか。
 
その明かりを私たちは手に持って、外側のものばかり照らして暗い洞窟を進むようでいますが、自らの寛ぐ心を照らして、心を明るくして、自らが灯となって、人生を照らしながら歩んでゆければと思います。
 
そんな明かりは、どこかで売っているものではありません。
心の扉を開いて部屋を明るくしてもいいし、心を見つめてあきらかにすることで明るくしてもいいし、仏教の教えや信条という松明を灯して人生を歩んでもいいと思います。
 
いつもしている日常の中に、大事な教えがありますね。
 


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