『ありがとう。また逢えるよね。ペットロス心の相談室』四季社より1,480円にて発売中!
 
・10月5日13時半より東京都現代美術館にて出版記念講演会を行います。

やすらぎへの道
ペットロスを知る修行者の歩み
 
禅宗の修行者としての精進の流れを十牛図で示します。
もちろん、一般的にも、ペットロスの心境にも、
当てはまるでしょうから、ここに記ます。
私の目指す「禅道(仏教)」というものは、私たちの持つ悩みやこだわり、
囚われというものから解き放たれ、自由自在のあるがままの
世界を観ることであり、思いのままに生きていくことにあるのです。
このことを有名なお経である「般若心経」では、“観自在菩薩〜”と始まるように、
“世界を自由自在に観ることができる者”
“自由でこだわりのない精神”
という禅の境地を悟りたいと思っているのです。
 
この私たちの社会は自由主義であるのですが、自由のようでいて、
実は不自由な世界に暮らしているのは殊更あげなくても感じていることでしょう。
それは、私たちの心が “差別” によって縛りつけられてしまい、
がんじがらめになっているからに他なりません。
この差別を他の言葉で言い表しますと「囚われ」「思い込み」「後悔」
などと言い換えてもよいでしょう。
 
そんな差別を超えたあるがままの世界をあるがままに観る
禅の境地が私の目指す「差取り(悟り)」なのです。
 
この観自在の境地を修行するにあたり、精進の段階を分かり易く示す
禅宗に伝わる「十牛図」でそれぞれの修行の段階における境地と
私が得ている(完全でないものの…)“やすらぎの心境”を紹介しましょう。
 
禅というのは感じることを重んじているので、
「不立文字」といって言葉や文字でいい表すことをしないので、
一般には分かりにくいこともあるかと思います。
ただ、その感動を誰かに伝えようとする時、
ことばの無力さに気が付くこともあります。
それでも何とかして伝えようとすればするほど、
巧みに説明すればするほど、
どこかウソくさくなってしまうのです。
 
だから、心で想いを感じて下さい。
目に見えない言葉があることを…
 
これは修行者のためのものというものでもないので、
動物たちを心から愛することが実は禅の境地に近づき、
動物たちの心の有り様こそ実は「やすらぎの境地」であることを…
 
第一図:尋 牛
まさに出発点であり、何ものにも囚われない真実の自己を探しに行く段階です。
この第一図は見失ったものを尋ねるという趣旨で、まだ登場しておりませんが牛は「本来の自己(真の自己)」を象徴し、手綱を持った牛飼いは牛(真の自己)を求める自分を表しております。
つまり、自己と自己との関係を牛と牛飼いの関係に置き換えて、その関係の変化について順序立てて話は進んでゆきます。
 
 
   
   
気づき
愛情を共にした私たちにおいては、パートナーが先に逝ってしまって、今まで側にいたのに急に居なくなってしまった状態を意味するでしょうね。
そして、亡くなった子(自分の分身)の足跡を追って探す旅に出かけるわです。
 
よく耳にする言葉に、「たかがペットのことで…」とありますが、
本当に“たかがペット”なのか?
人間と動物に本質的に違いがあるのか?
動物と心を通い合わせることがか弱い人間のすることなのか?
ペットは人間関係の代用なのか?
ペットが亡くなって泣いてなぜ悪い?
こんな辛い思いをするのは自分だけなのか?
自分は異常なのか?
などと思い、他の人たちはどのように考えているのか、真実を求めるのと同時に救いの手を求めて彷徨い始めます。
ちょうどインターネットでHPを巡るような旅ですね。
あなたは喪失ということから、自分探しの旅が始まります。
   
第二図:見 跡
唯一の手がかりである足跡を見つけて辿って行く段階です。
この第二図には、道の上に黒く点々と牛の足跡があります。これは足跡を見つけるという題名の通り、何かないかと探して「あっ、これだ!」というように牛の足跡を見つけた状況です。
この表現は禅宗の伝統的な意味としては、お釈迦さんの教えや経典などを読んだりして、言葉を通じて真の自己のあり方を一応理解した段階のことを示しております。
 
   
   
気づき
この悲しみや胸の痛みを他人に打ち明けるものの、周囲の無理解や悪意のない励ましの言葉などにより、自分の想いとのギャップに途方に暮れることも多いことですね。
「また飼えばいいじゃない」、「まだ他の子がいるじゃない」と好意を示してくれるものの、そうではなくて、亡くなった子は「かけがえのない存在」なのだという事を分かってもらえないこともしばしばです。
子供を亡くした母親に、「また産めばいいじゃない」、「養子でも迎えたら」と言う人はいないでしょうが、対象がペット(動物)となると、このことに気が付かず言ってしまうのです。
 
しかし、ペットを亡くして同じ経験をした人やその気持ちを察して寄り添ってくれる人の存在もあって、周囲から孤立しているように感じていた心は、実は多くの人に支えられていることにふと気がつくものです。
いろいろな話を見聞しているうちに、パートナーたちが残してくれた足跡があることを見つけます。
それは、ペットロスというものですが、この足跡が大切な宝物になるとは、この段階では気付く由もありませんし、パートナーたちが私たちを導くために残してくれている足跡だとも知らずに、この足跡を愛しく追っていくことになります。(愛情故の足跡だから愛しく感じるのですけどね。)
悲しみの道筋ですが、避けてたり、逃げたりしては何も見つかりません。
勇気をもって悲しみの足跡を辿ってみて下さい。
あなたの愛する子が勇気をもって生きたように。
   
第三図:見 牛
くじけずに足跡を辿ることで、ついに牛を見つけだすことができた段階です。
“これはっ!”と牛を見つけて駆け出してゆく様子を描いております。ただ見るだけではなく、自分の体が動き出してしまうほどの衝撃的なことです。
言葉の上で理解されてものが自分の体を通じて体験することで、教義ではない本当に自分のリアリティーとなってくるのですが、まだお尻が見えている程度で、全部が自分のリアリティーになっているというわけではありません。
見失ってしまうこともしばしばある状況です。
   
   
気づき
ペットロスという足跡からネットで検索していると、様々な人たちが同じような辛く悲しい想いを経験していることを知り、自分だけではないのだと知ることになります。
そして、その人たちがどのようにしてペットロスから立ち直ったかなどの話を聞いて少し糸口が見えるものの、まだ悲しみの底にいるので見えたり見失ったりして、悲しみと後悔がうねる波のように訪れてきます。
同じ経験をする者たちの話を見聞し、少し悲しみが癒されてきたかと思うと、何かをきっかけにしてまた悲しみのどん底に落ちてゆくような繰り返しです。
そんな中、求めていると不思議なことに、“あっ、これだ!”と心が惹かれる求めていた何かに出会うものです。また、そんな言葉に出会うものです。
あなたにとって、それがこのHPであるかもしれませんが、悲しみと後悔で見失ってしまうこともしばしばでしょう。
   
第四図:得 牛
ようやく牛を何とか捕まえたものの、手綱を緩めるとどこかに逃げてしまうような段階です。
牛はまだ野生を残しているので、どこかに逃げようとするし、牛飼いは逃がすまいとして綱を引っ張ります。
この状況を主客転倒させると、牛が牛飼いを引っ張っているとも言えます。
つまり、本当の自分(牛)と迷っている自分(牛飼い)との葛藤がまだあり、現実の自己と真の自己とが分裂していて、その分裂を埋めようとする非常に困難な努力と緊張を綱が表しております。
   
   
気づき
自分の気持ちと同じもの、求めていたものを見つけることができ、そこにある言葉や想いを頭では理解してきたものの、感情が言うことを聞かずにコントロールできないペットロス中期の心境が、牛と牛飼いとつなぐ綱のように引っ張り合っているようなものでもあります。
 
この図でも主客の転換が起こっているように、亡くなったパートナーたちが飼い主を“気づき”や“学び”に向って手綱を引っ張っているのです。(この場合は手綱ではなく、愛情の絆ですね。)
しかし、私たちは未だ煩悩の人であるので、後悔や自分を責めることを辞めません。
パートナーたちはせっかく心が繋がってきたのに、自分たちの感謝の気持ちと一緒に居ることができた喜びを伝えたく、想いというソウルな世界に気づいてほしく絆を引き寄せるのです。
後悔や自責の念に向おうとする飼い主を、“そっちじゃないよ”と絆を引っ張ってくれているのです。
それなのに、あなたは素直になれず、行ったり来たりと迷っているのです。
   
第五図:牧 牛
野生の牛を飼いならすことに成功したので、もう逃げ出すことはない段階です。
自己と自己との葛藤が次第に治まってきて、手綱を緩めても牛は逃げようとせず、付いて行くようになって迷うことはありません。
しかし、彼と牛との間にはまだ距離があり、自分と自分との調和が一致しているとは言い難い状況です。
   
   
気づき
自分との葛藤(後悔や自責)により自分の未熟な面と対面し気づくことで、その想いは時間と共に徐々に解け始め、パートナーが示している方向と反対方向に無理に想いを注ぐことではないことを感じ始めるのです。
いつまでも自分を責めていても亡くなった子は喜ばないと自分の手綱の方向を転換しようとするのです。
そうして、パートナーたちが示す感謝と愛情の方向に身を委ねると、共に同じ方向に歩みを進めるようになるのです。
愛するが故の後悔であった塊を解かし、優しさとなって穏やかな気持ちになることで、“自分たちが想っていることは、この方向であり、この感じなんだよ”と彼らの愛情と感謝を感じることができるようになって、私たち煩悩の人間も少し悟り、共に暮らしたこと、喜びや悲しみを含めた愛情、出会えからこそあるこの出会いに感謝できるようになるのです。
こうなると、流す涙も辛く悲しいものではなく、不思議な感謝の涙に変ってくるのです。
しかし、感情をコントロールするのは大変でパートナーとの間には、まだ距離があり調和しているとは言い難い状況です。
理性では分ってきても、まだ、あなたの感情とは距離があるような感じでしょう。
   
第六図:騎牛帰家
牛と人との争いはなく一心同体となっており、牛の上に人なく、人の下に牛なし、というような段階です。
もう牛と人の間には距離がなく、乗って一体となって自分との間に本当の調和が生まれ、全体がある一つの趣を帯びてくる。
それが笛を吹きながら乗っている姿に現されており、自分自身との葛藤がやんで、本当の自分が自分であるという自然さを表している。
そして、このあり方が同時に、他者との間にも、周囲の世界とも調和したあり方であって、ゆったりとした時の流れを感じさせてくれる。
   
   
気づき
一緒に暮らした時に感謝できるようになり、出会えたことに感謝できるようになり、自分との対話により、向き合うことをしなかった自分の未熟な点に“気づき”、あの子たちの生き方から優しさなどを“学び”、に感謝できるようなって、心に安らぎという調和が訪れてくるようになります。
人と動物との争いはなく、交わした愛情は全く同じものであることを心身から判り、人の下に動物なし、動物の上に人なし、と一心同体となって自分との間に調和が生まれるのです。
そして、亡くなったパートナーは心の中で常に一緒に生きており、共に人生を歩むこと、生や死を離れて世界を共にする同じ心を感じるようになってきます。
まさに、一心同体という状態で、一つの心を二つの世界で共有し、一人ではなく常に支えてくれる人の字の小さい方となって、私たちの人生を支えてくれるのです。
生きている時に離れていても想えたように、別れても想えることを通じて、一緒にいる包まれた感じを、あなたは徐々に感じ始めるのです。
   
第七図:忘牛存人
もう牛の姿はなく、人だけが残っており、ただ自然の中に佇むだけ。人牛一体といった境地から進み、より大きな自然と同一化した段階です。
ここでは、牛の姿は消えてしまい、本当に一体となっているので、もはや自分とは別の真の自分を思い描くことはなくなったのです。
存人は本当の自分になった自分がここにあるということですが、本当の自分探しをした結果、自分になったという自意識が残っていることをこの図は示してもいるのです。
   
   
気づき
徐々にパートナーのことを思い出しても涙すること少なく、思い出すことも少なくなってくるのですが、それは愛情が薄れてきたからではなく、記憶が遠のいているからでもなく、一心同体という境地から更に進み、その違いすら感じなくなっている状態だからです。
自分がこの世で幸せになることが、あの子の願いでもあり、心を共にするパートナーのあの世での幸せにもなるので、もはや生とか死とか、この世とかあの世との境のない魂の世界となってくるのです。
私が「あなたがしてあげたいことをしてあげましょう。それが何よりの供養になります。」と言っているのは、この心境を理解しているからです。
あなたの幸せがあの世での幸せであるように、してあげたいことがして欲しいことなるのです。だから、囚われずにしてあげたいことをしてほしいのです。
みなさんに幸せになってほしいので、険しい道を歩むのではなく、日常に戻って生活しているのです。
   
第八図:人牛倶忘
牛はおろか人さえも忘れさられ、禅宗(仏教)の境地でもある空の段階です。
ここでは、大円が描かれているだけで、円相以外何も描かれていません。
それは、本当の自分になった自分すらも捨て去り、捨て去った跡すらも残さないということで、今までの1〜7の歩みで得られた本当の自分すらも、惜しげもなく消し去られており、空の境地を表しています。
   
   
気づき
まさに人間と動物という差別や区別などなくなり、植物‐動物‐人間‐自然‐地球‐宇宙とがまたく一つに溶合った調和状態です。
すべてのものがこの世界で、「かけがえのない存在」であって、生きとし生ける者が命の尊厳を有していることを理解し、その理解も今までのペットロスという心の体験を通して自分のリアリティーとなり、理性と感性から愛がわかるようになります。
そして、ペットであるパートナーたちとの愛情が人間同士で交わす愛情と何ら変りのないこと、すべての命が自分が愛した子と同様に愛されるべく命を有していること、思いやり・優しさという愛が世界を構成している真実であり、愛がすべてであると種族や属性を超えて大いなる目覚めとなるのです。
こうして感性と理性を統合した自分自身でもあるスピリチュアルな魂は、光の波長を増幅して輝きだし、自らも眩しくて目を閉じてしまう程です。(ちょうど思考をどんどん進めていくと周りが見えなくなって、ふと気づいた時のような感覚と言ったらいいのかなぁ)
あなたと愛する子が一つになって、不思議と温かな気持ちに包まれるようになり、内側から生きる力がわいてきて、そっと背中を押されるように共に歩み始めます。
   
第九図:返本還元
全くの無である空の境地を越えると、そこには木石が描かれているだけで、自分は元の世界に戻っていることに気が付き、自分探しをする旅に出る前の世界と何ら変らないことを知るのです。そうして、あるものをあるがままに何の抵抗もなく受け入れる段階になるのです。
「本に返り源に還る」ということで、禅的に言いますと「死して蘇る」(絶後再蘇)という言葉がここに示されます。
真の自己なる道を歩んできて、第七の自分に落ち着いてしまうと、“俺は俺”というような自己中心的な自我に支配されて最初の時の状態に戻ってしまうので、そのような自己すらも第八の空円相で徹底的に打ち消して、この第九で甦るのです。
すると、すべてのものは、あるがままの実相をしてしており、「花は自ら紅、水は自ら茫々」と詩の中で詠われているように、それがそのまま、あるがままのすべてを、そのままに受け入れることのできる心の高みに達するのです。
 
求めてたい「青い鳥」は、すぐ側にいたようですね。
   
気づき
先ほどの眩い光が柔らかくなり、そっと目を開けてみると、不思議なことに目の前にはいつもと変わらない光景がただあるのです。
そして、いろいろと悩み苦しみ、想い考えてきたことが、自分の心の中で起こっていたことで、実は悩む前から同じ世界がそこにあることに気が付くのです。
世界が変ったのではなく、自分が変ったのです。
自分が変れば世界が変るのです。見方によって、思い方によって、世界は変化するのです。こうして、「囚われのない自由な精神」を得ることになり、ものごとをあるがままに観ることができるようになるのです。
あるがままの世界で、もともとあったものに気づき、それまで見えなかったものが見えてくるのです。
生前と死後とで世界が異なっているように思っていたことが、実はその前からあったことに気が付き、パートナーたちと生活していたときと何ら変わりないことを感じるようになるのです。
(生前も死後も“大好きだよ”という気持ちに変りはないことが一番分かり易いと思いますね。)
 
出会いがあったから喜びや優しさという愛情を交わすことができ、悲しみや後悔も共に暮らしてきたときに多くの愛情があったからなのだ、出会いがあったからだと理解し、別れの悲しみすらも愛しくなってくるのです。
彼らは出会えたことに価値を見出しており、さらに一緒に暮らせたことに至上の喜びを感じているのです。(その喜びを抑えることができない様子はご存知ですよね。)
出会いは過去にも未来にもなく、ただ今にしかないのです。すべての思いは、今という時が叶えてくれる生命に平等に与えられた天からの贈り物と分かることでしょう。
どうにもならない過去にこだわり、やって来ない未来に憂いてあれこれ迷い、心配してはもはじまらない、大切な今を失ってしまうことになってしまうのです。
だから彼らは、「今を精一杯生きる」ことを大切にして、一瞬一瞬を充実しているからこそ、生命の躍動感が全身に漲り、こちらに伝わってくるのですね。(パートナーたちから教わることが多いものです。)
 
世界をあるがままに観ることができ、今という時を大切にしたならば、
楽しいことも、辛いことも、嬉しいことも、悲しいことも、好きなことも、嫌なことも、すべては自分に必要だから起こるものとして、すべては自分の魂の成長のために起こる出来事として、ありのままのすべてを正面から受け入れるようになるのです。
 
いたらない未熟な自分も、こうあるべきと求めすぎる自分も、あるがままの受け入れるようになり、そのままのあなたを好いてくれたあなたをあなたが好きになってくるでしょう。
 
禅的な「死して蘇る」とは、死の絶望から得ること多く、自らを新たに蘇るのと同時に、パートナーたちの死を無駄にせず“気づき”と“学び”を活かしてあげることが、新たなあなたと一緒になって、命は蘇ることになるのです。
   
第十図:入廛垂手
廛(てん)とは社会ということで、社会に出て手を差し伸べるということです。
「自分にできることを他人に心から親切にする」というのが人の道であり、宗教の目指す道であるのですが、この境地に達した人は不思議と顔はにこやかで、穏やかな言動により、周囲の人々や行く先々で、人々は感化され心の中にある苦しみや悲しみが取り除かれるような存在となる。
特に自己を誇るわけでもなく、偉いのか偉くないのか、いっこうに聖者らしからぬその自然さが、自由でこだわりのない精神を宿す真の自己の境地になります。
そして、この境地はこの図が示すように自己とは「我と汝」というように、自他のすべてが「我」なのであるということ表しており、開かれた自己こそが、「自己ならざる自己」であるという趣旨が最後の図に描かれているのです。
   
   
気づき
そうなると、人種や種族、地域や属性に関わりなく、困っている者がいれば手を差し伸べて、悲しんでいる者がいればそっと側に寄り添い話を聞き、『自分にできることを他者に心から親切にする』という道を歩むようになり、より優しく深い愛情ある者に生まれ変わるのです。
ペットロスを経験し乗り越えた人は、その道を歩んだことより強くなり、多くの学びと気づきと想いにより優しくなっており、同じ悲しみを持つ者たちが悲しみから心を痛めている時に、そっと手を差し伸べられるような人の心の痛みが分かる者となるのです。
 
まさに、私の目指す『差取り(悟り)』のように、他人の気持ちを自分の気持ちのように感じ、自分を大切にするかのように他人を大切にする、自分と他人の心の差を取り除くことで、さらに心を一つにしてゆく。
パートナーたちと心を一つにしているように、隣人とも心を一つにしていくことが、想いを広げ、優しさで世界を包むようになるのです。
こうして、ペットのことだけではなく、人間同士のことはもちろん、自然や社会についても手を差し伸べられる、すべてに通じる優しさになるのです。
善い事をしても誇らずに、見返りを求めることもなく、無理をせずに自分のできることをただ行うという自然で自由な精神を持つ自分となるのです。
 
動物を心から愛することが、他人を心から愛するようになり、自然を、地球を、生命を愛するような心境にまで自己を高めていくことになるのです。
パートナーたちに天使の翼があるからこそ、愛情の絆で結ばれた煩悩の人間を導いて安らぎの心境にいざなってくれるのですしょうね。(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようです。)
この安らぎの心境こそ、実は共に暮らしてきたパートナーの無条件の愛情という心境であり、安らかで穏やかな心の持ち主であったからこそ、一日を一生懸命に生きていたからこそ、側にいる私たちは感化され、癒さ、励まされていたのです。
 
私たち欠点の多い飼い主を、あるがままに受け入れてくれ、多くの愛情を注いでくれたパートナーたちの心境が、この十牛図にあり、ちょうど図にある者のようでもあります。
ペットといわれて偉いのか偉くないのか?
辛い時にはそっと側に寄り添ってくれたように、手を差し伸べてくれましたよね。
そういう心があり、私たちは学ばなければなりません。
 
「社会に出る」とは、私たちに出会うべく生まれてくること。
「手を差し伸べる」とは、無条件の愛情を注いでくれるということ。
「自分にできること〜」とは、無理をせずに、多くを求めず、自分サイズにできることをするようになるのです。
こうして、人は助け合うようになり、動物を助ける人もいれば、自然を助ける人もいるし、人を助けるようになることもあればで、溢れる愛情が何かをする力となって、生きることに前向きになるのです。
 
ここまでくると、あなたの子の想いはあなたに受け継がれ、あなたの子の命はあなたとなって生き続け、あなたの子の命はあなたと共にさらに活かされ、あなたはさらに輝き生きることになるでしょう。
そのあなたの生き方が、誰かに影響を与え、心の支えとなり、あなたの想いを誰かが受け継ぎ、あなたは誰かの中でも生きるのです。
そして、あなたが与えられた命を精一杯生きて時を迎えたとき、あなたは共に生きた者の姿を見るでしょう。
あなたが再会を果たしたとき、あなたを想う誰かの十牛図が始まるのです。
   
私が「動物たちのために…と僧侶になった」と言うと寺院社会という小さなコミュニティーでは馬鹿にされたり、おかしく思われることも多いのですが、そもそも“悟り(気づき)”とは何によって目覚めてもいいですし、何をきっかけにしても悟る境地は一緒なのです。
あくまでも修行や坐禅は悟りを得るための一つの手段であって、けっして目的ではないのです。
どんな職業にしてもそうなのですが、その道一筋という人たちの心境というのは、同じ悟りの域に達するものですよね。
この十牛図は出家修行者のあり方を示したものでありますが、それこそ「囚われ」であり、この十牛図はすべての者たちのためにあるものです。
それを認められないのは、目的を忘れ手段に執着する「自由でこだわりのない精神」が得られていないからで、この十牛図にある足跡すらも見つけていない段階と同じです。
この十牛図がみなさんの心に何かを見つける足跡になればと思い、ここに記します。
 
   
   
気づき
私にとって共に暮らしてきたパートナーたち、出会いのあった動物たちは、私に気づきと学びを多く与えてくれた人生の先生であり、ピュアな魂を感じる天使だったのです。
多くのパートナーたちが、無条件の愛情を示してくれて、“優しさ”がすべてなんだということを教えてくれたのです。
だから、私は“優しさ”に最大の価値を見出しているのであり、それを教えてくれた尊い命たちに感謝すべく何千年の時を経ても消え失せなかった力のある『お経』を捧げたいと思っているのです。
優しさはか弱さでないことを、小さな体で一生懸命に生き、与えられた命を諦めることなく最後まで精一杯生きるあの強さが、すべてに通じる優しさとなることを、優しさと強さは同じことを教えてくれました。
厳しさと優しさ、強さと弱さ、喜びと悲しみ、など相対するすべてを含めた調和、すべての要素がかけがえないものであることを教えてくれました。
そして、彼らの命もかけがえのないものであることを…(気づくのがちょっと遅かったけど)
出会えたからこそある喜び、出会えたからこそある悲しみ、そのすべてをあるがままに受け入れて今を生きてゆく。
ゲーテが「本当に愛するとは、相手のすべてを欠点をも含めて好きになることだ」と言っていたように、愛は無条件であることをパートナーたちは言葉ではなく、行動でもって教えてくれました。
私という人間の欠点をも含めて不甲斐ない飼い主を好きでいてくれたのです。
本当の愛というものを命をもって示してくれたのです。
そんな尊い存在である者たちを、人間より下とか上ではなく、人間と動物は違うとか違わないではなく、そういう事ではなく、そんな次元ではなく、この蒼き地球に共に暮らしたパートナーとして、見かけや属性に関わらない同じ魂の伴侶として、多くの学びや気づきを与えてくれたソウルメイトとして、動物たちと愛情という絆を結んだ人間として堂々と生きてゆきたいと思っているのです。
   
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