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 [52]   斎藤道三はもと一介の油売りではなかった!!(特集から)
 
 北条早雲、松永久秀と並び戦国三梟雄とされる斎藤道三は、山城の一介の油売りから才覚と手練手管でのし上がり、一代で美濃国をものにした典型的な下克上大名だとされていた。
 ところが約25年前に、これまでの通説「道三の立身出世物語」を、根本的に見直す衝撃的な古文書が出たため、今では道三の父子二代にわたる権力奪取だったことが明らかにされつつある。
 その古文書とは、横浜在住の人物が所蔵していた新史料で、「六角承禎条書写」(永禄三年・1560年)といい、江南の戦国大名、六角承禎(義賢)が斎藤道三の悪行を数々挙げて家老らに対し、息子と道三の孫娘との婚姻に反対する意見を述べたものだ。
 そこには、道三の父親、新左衛門尉が京都・妙覚寺の僧であったこと、西村と称し次第に勢力を得て長井姓になったこと、息子の道三は諸職を奪い、斎藤を名乗って美濃を掌握したこと、などが明らかにされているだけで、油売りだったとは書かれていない。
 この点について、最近出た「わかりやすい岐阜県史」(岐阜県発行)には「国盗りは道三一代ではなく父子二代で達成された」と明記され、また「岐阜県の歴史」(松田之利ら著)では、司馬遼太郎の「国盗り物語」など、多くの書き物にある油売り説をばっさり否定し、「事実と物語は峻別されねばならない」と戒めているほどである。
 道三は天文年間の初め、父の死で家督を継いだようで、「斎藤道三」(桑田忠親著)や「武将列伝」(海音寺潮五郎著)などによると、大永7年(1527年)五千五百の兵で美濃国守護・土岐政頼に夜討ちをかけて敗走させ、自分の言いなりになる弟の頼芸を守護職につかせた。
 そんな道三の専横を見かねて、老臣達が非難しはじめると、道三は政務怠慢と不行跡を理由に、長井家当主を殺害して主家を乗っ取り、長井新九郎規秀を名乗り、稲葉山城(岐阜城)を居館にしてしまった。
 その後、美濃の守護代・斎藤利隆が没すると、その家督を継いで斎藤姓を名乗り、天文十一年には一挙に美濃を奪うべく、大桑城を攻めて頼芸を追い払った。
 こんな道三について、「道三は人を徹底的に利用し、利用価値がなくなると殺してしまった。恩義や仁愛の観念は彼には皆無である」(海音寺潮五郎)という否定的な断罪の一方で、「規制の秩序やモラルを突き崩し、悪と見られがちな道三の合理主義は、近世へ道を開く先駆けだった」(尾崎秀樹)という評価まであるのは面白い。
 そんな非情な道三も晩年は、長男・義竜に稲葉山井ノ口城を譲って隠居した後、一説に土岐頼芸の落胤ともいわれる、この義竜と家督争いを巡って対立し、長良川河畔で敗死するのは哀れである。
 かくして道三が一代で戦国大名に駆け登った、という歴史ロマンは虹の彼方に消え去ったとはいえ、道三の華々しい「秩序破戒」の軌跡は、戦国時代の栄枯盛衰を今も、如実に我われに教えてくれる。(京都新聞「京近江・武将群像」<12>から)
 
 このマムシの道三の遺書なるものが、我が家からさほど遠くない上京区新町通鞍馬口下ル「妙覚寺」に、秘蔵されているというので驚いた。
 妙覚寺とは斎藤家にとって極めて縁の深い寺で、史実としては道三の父が修行した場所であり、伝説によると道三自身も幼少時に、ここで修行に明け暮れたとされている。
 その遺書なるものも、ウソかまことか討ち死の前日に、末子に書き残したものだそうで、「そなたはかねての約束通り京都の妙覚寺へのぼるがよい。一子が出家すれば、九族が天に生ずると言われる。だからこのように涙ながらに一筆をしたためた訳である。それも夢のようにはかないかもしれない」と書いた後、次のような辞世の歌を残している。
 「捨ててだに この世のほかはなき物を いづくかついのすみかなりけん」
 マムシと呼ばれ下克上の典型と見られる道三にも、こんな悲しい辞世の歌があったのです。意外に感じ易く人間的な一面を、人知れず持ち合わせていたのかも知れません。(げんや)
  
update:
2003/09/20

 [53]   裏千家の「今日庵」命名の由来。(P)
 
 1646年、千宗旦(千利休の孫)は屋敷や茶室・不審庵などを二男、宗左に譲って、北隣に隠居所を構え二畳敷き(一畳台目)茶室を作った。裏千家には、この茶室をめぐって次のような逸話が伝えられている。
 宗旦居士は茶室披きの日、参禅の師・清巌宗(い)和尚を招いた。しかし待っていても和尚は現れず、所用のあった宗旦は「明日おいでください」と伝えるように言って外出、直後に和尚が訪れ、つかつかと新席に入って、しばらくして帰った。
 戻った宗旦が茶席を見ると、腰張りにまゆ墨で「懈怠比丘不期明日」と書かれていた。なまけ者のわしやから明日と言われても、来られるかどうかはっきりいたしませんーーという意味だ。
 宗旦居士はそれを見て、また一つ悟りを開き早速、清巌和尚の所へ行って「今日今日と言いてその日を暮らしぬる明日の命はとにもかくにも」の歌を呈し、不明をわびた。宗旦はこのことから茶室を「今日庵」と名づけた。
 十六世坐忘斎千宗室家元はこの逸話にふれて「隠居するということは、いっぺん死んでもういっぺん生きること。宗旦居士は、自分の中に残された時間をいかに新たに、有意義に自分のために使っていくかという覚悟の上で庵を建て、参禅の師をお招きした。ならば、その一日はそのためになくてはならない一日。なのに、他の用事を入れたのはその覚悟ができてなかったということではないか、と気付かされたのです」と語っている。(京都新聞「茶の宇宙ー京」から)
 
 そう思って周辺を見渡すと私をを含め、一部の例外を除いて友人知己はみな、隠居またはそれに近い身の上です。その中に果たして何人、いっぺん死んでもういっぺん生き返り、残る時間を有意義にと生きる、宗旦のような人がいるかどうか?たかが茶の湯、されど茶の湯。実に哲学的で禅味に満ちた話ですね。
 時代もちがい環境がいかに激変したとはいえ、この宗旦と清巌和尚の禅味豊かな逸話を読むと、何だか羨ましい気持ちになってきます。ということは今も、濡れ落ち葉や世間のお荷物にまでは至らず、まだ多少は見込みがあるということでしょうか?
 それにしてももし、この茶室披きの日に和尚がさっさと来るか、宗旦の方に他の用件さえなければ、「懈怠比丘不期明日」は存在せず、「今日庵」の命名も多分なかったでしょう。そう考えると、この世はいかに偶然の積み重ねで出来ていることか、と不思議な思いにかられます。(げんや)
update:
2003/09/11

 [54]   昔は「なんば歩き」が普通だった?(コラムから)
 
 明治になるまで日本人は、なんば歩きが普通だったといわれる。なんばとは右足と右手、左足と左手を同時に前に出す歩き方だ。昔の絵を見れば、そういう歩き方や走り方をしている人が目立つ。ちょうど佐川急便の飛脚マークのような形である。
 今も歌舞伎の六方や能の所作、相撲のすり足や武術に残り、もとは農耕作業から身に付けた、と見られるこのなんば歩きは、明治になって西欧式軍事教練が導入されると、軍隊や学校を通じて何時の間にか、現在の西欧式にすり替えられてしまった。
 すっかり体が西欧化してしまった今となれば、なんば歩きは何とも歩きにくい変な感じもする。しかし体を捻らない分、ムダのない動きが出来ると、すでにバスケットの指導に採用されたり、スポーツ界の各所で注目されだしたことは見逃せない。
 中でもパリの世界陸上で優勝した末続選手が、練習でこの「なんば走法」のタイミングを取り入れ、「終盤で疲れてくると、手足の動きのタイミングが微妙にずれてきます。それを修正するのが目的でした」というのは特筆に価する。
 そして日本選手権で日本記録を出した走りでは、終盤の20メートルでその練習時の感覚が生きたという。世界の最速を競う場で、すっかり忘れられていた日本人の、伝統的な身体感覚が甦り、モノをいったのだとすれば愉快である。(毎日新聞「余録」から)
 
 歌舞伎や相撲の世界に、妙な手足の出し方があるのは、何となく知っていました。しかしそれが「なんば歩き」と称される、古来の伝統的な歩き方であり、明治までは皆さん、そうして歩いていたとは、恥ずかしながら全く知らずにいました。
 明治期の日本人は和魂洋才をモットーに、西洋のいいところだけを取り入れ、日本古来の伝統に接木したはずなのに、どうして「ムダのない伝統的な、なんば歩き」を追放してしまったのでしょうか。
 いくら日常の世界からは排除できても、やはり伝統的な古典芸能や相撲・古武道などから、根こそぎには出来なかったのですね。そして、それが今また再評価され、どうにも劣勢な日本の陸上短距離界に、みごと貢献することになるとは、実に嬉しい話ではないですか。
 ところでテレビ、映画の時代劇で、出演者の皆さんは、ちゃんと「なんば歩き」で演技しているのでしょうか?あまり気にして見たことがないので、何とも言えないけれど、もし今風の歩き方をしているなら、ちょっと問題ですね。
 それにしても「なんば歩き」とはどういう意味なんでしょう。広辞苑には「南蛮」の項に、普通とは逆の歌舞伎や舞踊の演技、とあるだけで詳細は不明です。(げんや)
update:
2003/09/07



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