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倶留尊山・大洞山
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いつの頃からか登山の帰りにその地の資料館、博物館、記念館へ寄るようになり、人々の山へのかかわりを深く知るようになりました。
城山クラインガルテンでの生活も池の平高原で師とする谷口光雄さんに地域の人々とともにある山の話や地域の歴史をたくさん聞きました。
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農園の前の杉林の上に釣鐘の形をした大洞山が見えます。村の俳人、登 七曜子氏は大洞山の恵みに感謝して「代田鋤く大洞山の水貰ひ」と詠っておられる。謎の北緯34度32分線上の大洞山も倶留尊山も地域の人々とともに在ることを聞きました。(登 七曜子氏に句を引用させていただく許可を得てあります)
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倶留尊山のお茶窪
倶留尊山にはくぼみがあります。谷口光雄さんから「あの窪みは午後二時頃になると日陰となるのでその頃に休憩のお茶の時間とした。そのためにあの窪みを『お茶窪』と言う」と聞きました。確かに午後二時頃に画像のような日陰となります。生活に密着した倶留尊山です。「全校生峠を下りて花野行く」登 七曜子氏。「花野」とは池の平のことです。教育委員会の「遺跡分布地図」によると池の平高原は「岩山遺跡」で縄文・室町遺跡とあります。5月12日カッコウ鳴く。5月18日ホトトギス鳴く。6月に入るや卯の花が咲く。高原の歳時記はダイナミックです。
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池の平高原は朝の高原。曽爾高原は午後の高原。
池の平高原とその上の倶留尊山連峰は朝の光を全身に浴びて輝きます。そのために土地の人は「池の平は朝の高原」と呼び「池の平を歩くのは朝がよい」と言います。そして奈良県側の曽爾高原を「午後の高原」と呼びます。
イワン・ハミルトンは
「The day is old by noon.」(日は正午までに老いる)と。ダイナミックな池の平はまさに「朝の高原」です。
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カヤ場を争って論じた「論所」(ろんじょ)
かってカヤは屋根を葺くなど生活に欠かせないものでした。曽爾村と太郎生村がカヤを刈る場所をめぐっての論争をしたことを物語る地が「論所」です。「論所」は倶留尊山と三つ岩を結ぶ稜線の西側にあります。こんな地名がだんだん消えていきます。残念なことです。登 七曜子氏は「村中が杉の緑蔭美杉村」と詠っていますがかっての太郎生村の山はカヤが生い茂っていました。「論所」の地名が入っているものを探しましたら、「中高年向きの山 100コース関西編の中太郎生から倶留尊山」に「論所峠」がありました。
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大洞山にふさわしい感動的な出来事
雄岳雌岳の両岳がそろった大洞山にふさわしい感動的な出来事を美杉山荘の前の碑で知りました。碑は、美杉村史に「大洞山開拓地から多量の考古遺物が相野田夫妻の努力によって収集された」とある相野田健治氏が奥さんのために建てられたものです。碑文に「大洞山総合遺跡 縄文・弥生・古墳時代の長きにわたって、この地に生き、栄えていた太古の昔の大洞人。何千年もの間、眠っていた遺物の数々は戦後開拓農民の手で光が当てられた。森を切り拓き、一握りの土を掘り起こし、貴重な遺物の大半を発見してきた我が妻、常子。土の中の小さな石器と対話し続けた我が妻は、一九九三年十二月、永眠す。共に希望を持って明日を切り拓き、私達が愛したこの大洞の地で。一九九六年十二月吉日 相野田健治 建立」とあります。
碑文も素晴らしいがそれ以上にご夫婦がされた業績に感動しました。
相野田さん宅にお伺いして貴重な遺物を見せていただきながらお話を聞きました。「大洞山開拓の第一号だと思っていたら先人がいた」と大笑いされたのが印象的でした。相野田さんは紫色の舌紋のある素晴らしい縄文犬(北海道犬)を飼っておられます。縄文遺跡に相応しい犬です。相野田さんにホームページへの記載の許可をいただきました。
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