歌集『野乾草』
緊迫した時代の中
奥山 善昭
第一歌集。昭和十六年より昭和三十三年夏までの六百首を収載。
ひたひより汗をながして居たりけり雨乞の寺の鐘なりわたる
後記の中の作品で、大正十三年茂吉選。とある三首中の一首で発表歌としては最初の作品。既に叙情的感覚に瑞々しい響きがある。
日の入りし地平線よりさすひかり空のまほらにけぶるいく条
野乾草やかんさう積みあぐる作業続きゐて午後四時過ぎの野の霧らひはや
拳銃はかたはらにおき今日までの調査書は鞄につめて寝につく
「第二国民兵」時代のもの。緊迫した時代の空気の中においても一、二首目に見られるような叙情的感覚が息づいている。
砲声がシベリヤの闇にきこゆればその位置と数を手さぐりに記す
特秘文書焼却の部署につきしまま朝たけぬれば腹が減りたり
十年を年いつはりて身の保全願ふは卑怯か卑怯にてもよし
今日ありて明日分かぬ時に生きあへどさまざまののぞみ吾が妻はもつ
軍役時代、二首目には「八月九日」の小題があるので戦況は切迫していたのであろうが、なんとなく軽味を感じさせるものである。又三首目には、父として夫として生きようとする必死さが滲み出ている。四首目には「十二月十四日」の小題があり、脱走して、妻と再会した後の作品であろう。事情は切迫しているのであろうが、言葉に伸びやかな響きがあってしみじみとしたものが感じ取られる。
柔やはらなる微塵の照りにひらめきてゆく鳥影のこころこほしも
朝床にめざめて吾は鳩尾みづおちより背にぬけゆきし弾おもひゐる
詞書に「四月十七日午前十一時、国府軍、八路軍の市街戦あり、偶々興安大路にて狙撃さる」とあり、入院中、退院後の作品である。一首目は入院中のものとは想像できないほどに叙情が豊かで感じ方は、荒井孝の本質を見るうえで見逃せない。作品の上に流れる豊かさと調べは、この後、作品の基調ともなる。
無蓋貨車に足まげて寝る夜半冷えて遠き星より来くる光あり
博多港しらじら見えて涙わく一年さまざまに偲びし国土よ
後記に、「胡盧島乗船検閲の際陰蔽して来た作歌百余首を…」とあり、これらの作品は現地にて作られたものである。
今日の日も寒き二階にかへり来て冬咲く花を灯の下におく
さむ空に咲く八重桜翳もつと思ひて居りて一日は過ぎつ
四十過ぎて東京に出でしは遅かりきと君言ひしこと沁みて思ひき
あたたかくなりしこの夜を臥しをりて吾が手にとどく一冊をとる
「昭和二十七年三月、私は職を棄て単身上京、アララギ発行所の事務に携はる」とある。柴生田稔は「率直に言つて、全体として何だか淡く、物足りないところがある。」と指摘するが、その淡白さは本質なのかもしれない。
歌集『霜ぐもり』
ここに一人の覚悟を読む
大橋 栄一
歌集『霜ぐもり』は昭和三十三年から四十四年までの八百四十三首を納めた、荒井孝氏の第二歌集である。
荒井孝は、第一歌集『野乾草』の「後記」によれば、「昭和二十七年三月、私は職を棄て単身上京、アララギ発行所の事務に携はるやうになった。」とある。
北窓の椎に光のきよくして吾が怒り少しづつをさまつてゆく
一つ一つとわれの仕事の片づくをたのしみて今日も机に坐る
妥協して心しばらくしづめをり吾が前に燠ひとつ灰となる
昭和三十四年の作品である。
アララギ発行所は、当時世田谷区玉川奥沢町五味保義宅の一階にあった。
五味は歌集『一つ石』の「後記」に「アララギ発行所を自宅に置く関係上、一日もその事から離れられず、アララギ会員の中に起る事柄が、いちいち私の生活にひびきました。」とその労苦を記している。荒井孝はその一端を担当したのである。「吾が怒り少しづつをさまつてゆく」や「妥協して心しばらくしづめをり」などの詠嘆にその思いが伝わってくる。
雑誌未着のしらせは今日も土浦を中心とせるところよりくる
誤植ひとつ見いでてこころわびし今宵は何もせず坐りをり
「荒井孝の仕事は正確で、繊細である。」と私が聞いたのはもっと後年であるが、日々雑誌発行に神経を擦り減らす歌は強く心にひびいてくる。
十年たたば汝がもとに帰らむといでこし東京に今日十二年
われの帰りし夢を見たりと吾が妻の告げこしこころ一日思ひき
共に昭和三十九年の作品である。荒井孝は東京に、そして夫人は長野に住むという生活の中の詠嘆である。
これも後年の話であるが、ある時右手に包帯をしているので伺ったところ、「洗濯洗剤を直接手で使用したために荒れたのだ」と苦笑いしていた。私は笑うに笑えない寂しい気持ちになったことを記憶している。
茫々とベッドに坐り居たまへば訪ねこし今日の心やりどなし
君の病に害あれば告げぬこととして短く今日の面会終る
昭和四十年二月、五味保義は糖尿病と高血圧のため入院した。一時回復したが翌年脳血栓のため再び倒れた。
その五味保義に寄せる思いの歌二首
病みて来まさぬ人思ひゐる夜のふけて吾が蚊帳照らす山の上の月
人笑ふときに笑へど水のごと滲みくるこのさびしさは何
この後、荒井孝のアララギ発行への比重はさらに高くなったと思うのであるが、以前のようにそれを嘆く歌はあまり無く、強い心で仕事をしている思いが伝わる。
つきつめて思へば謬りしことばかりたとへば東京に出でたることも
この歌を揚げて最後にしたい。
歌集『寒暮』
澄んだ詩の世界
中山やすゑ
歌集『寒暮』は、荒井孝先生の第三歌集で昭和五十年七月二十五日不識書院より発行された。昭和四十五年より四十九年までの四百二十六首、作者六十歳から六十五歳までのものである。
植溜のいくうねか雪の残りゐてくもりはつづく昨日も今日も
巻頭のこの一首は、早春の何気ない風景に目をとめてそれを淡々と写しているようだ。それでいて読む者の心に何か深く沁みてくる。
消え残った雪が畝の凹みなどにまだ見られるころ、近づく春をどこかに感じながらも地面も凍ったままの冷たい空気の、そんな日のくもりなのだ。そしてそれがつづいている。「昨日も今日も」は、明日もあさっても、おとといもその前もずっと…につながって作者の生きている今の心の内を連想させる。読み進めてゆくと他にも
窓の下の枯生をあさる鳩一つ曇りよりさす光寒くして
白々と段なす丘の空おほふ曇り海の方には光にじみて
などなど心で捉えた「くもり」が多く詠まれている。それらは時に「春の曇り」であったり「秋寒きくもり」や「空おほふ曇り」であったりしてさまざまでありつつ、作者の立場や当時の心境が象徴的に表われてこの歌集の底を流れるひとつの感じとなっている。
君倒れすでに八年か思ひみればそれより吾がこころ消極にして
その職を抛ちて来たる日の覚悟おもひ起こせと神のこゑする
作者荒井先生は、昭和二十七年三月単身上京して以来アララギ発行所に五味保義を助けての勤めの生活であったが、五味保義が倒れてすでに長いこの時期任されて仕事を、責任を果す日々は決して安穏平坦ではなかったと思われる。職をなげうって上京してきた時の一途な思い(歌に寄せる)、覚悟(歌に生を懸けた)さえ時には揺らぐほどの苦しみもあったにちがいない。そんな作者の心のよりどころまた安らぎとして
バッハ弾く汝が腕に光る汗深夜ふたたび風はつのりて
単純によろこび悲しむこの妻と過ぎ来て共に老いに入らむとす
故里に吾のこころ知るいくたりを光のごとく今宵思ふなり
散り残る枯葉ひらひらとあかるくてここより信濃となりし谿 の道
に見られるような家族の存在があり友らがあり稀に帰るふるさとがあった。家族や友らやふるさとへ寄せる思いも、あたたかいしみじみとした流れとして、先にみた「くもり」の調べとともに本集を貫いている。そしてこの二つの流れの上に立って、あるいは二つがひびき合ってすぐれた歌風が出来あがっているのではないだろうか。
冬すぎむ嵐吹きいでし夕ぐれに東に低く月の出の明り
庭木透す光は土に白くしていづくよりかくちなしの花の香流る
この澄んだ詩の世界を深く味わいたい。
歌集『寒林』
内面への肉薄
斎藤 彰詰
第四歌集『寒林』は平成四年七月石川書房より発行された。昭和五十年より平成三年までの作品千四百五十八首が収められている。
この期間も作者はアララギの編集の実務についておられ、その後苦労は増すばかりであったようだ。その反動というべきか、作者の歌が自らの内面によりつよく向けられて来た作品が多くなったのを実感する。
われにまつはる影を亡霊の思ひして帰り来りぬ月高くなる
熱出でて伏しゐる今日の微睡まどろみに何に現れしシャガールの女の顔
逝く年の今宵わが掛くモーツァルトレクイエム亡き幾人の為自らの為
わが今日の心いやさむと一人聴く冬の旅はいつか最終の曲
光なく空は白色にひろがりて心の沈む一日なりけり
これらの歌に作者のこの後を見てもよいのであろう。「影を亡霊の思ひして」など、作者のそれまでの作品には見られなかった表現ではあるまいか。「今日の微睡に何に現れしシャガールの女の顔」も表現が大胆である。その究極には自らの内面に肉薄する意識があったと思われるのだがどうだろう。
停年の友等あたらしき職得しをよろこびとして昨日より今日
校了紙渡し来て茫々とゐる午後か陰立つゴムの一鉢のまへ
今少し簡潔に表はし得ぬものか読み終へていらいらと原稿を 閉づ
アララギの編集の実務の中から生まれた歌。それぞれ作者の人柄が滲み出ていると思う。
ここより信濃となりてこころしたし向ふ北空はすでに夕靄
花終へし素心蘭一鉢も取りこみて故郷に帰らむ心あはただし
霧の中馬臭ひ近づきし馬の影見つつのぼり来て更に高き丘
アララギの仕事の合間を故郷信濃に帰られる。その時の歌はどれも良いと思う。「心あはただし」など、作者の弾んだ心持がよく出ている。
わが知らぬウィーンの一室に如何にゐる東京は昨日も今日も雪空
募りくる冷えに夕早く雨戸引きぬ病み臥す妻の為老われの為
父母の後姉にはぐくまれし十五年干渉せぬ妻との四十年
肉親を詠んだ三首、作者の思いが伝わる作品である。これらに見られる通り作者の歌は平明である。ゆえに、読者の共感を得る作品が多いと言える。
『寒林』の「後記」に作者は「この期間も雑誌アララギの編集業務に従ひ、相変らずの日々を繰りかへして来ましたが、このところ私にはかけがへのない諸先進を相次ぎて失ひ、又、健康状態も悪しくもはや意欲もなくなりましたので、本年三月を以って昭和二十七年三月より従事して参りました四十年の業務から引退いたすことにしました。」と記している。
五味保義先生亡きあと、作者の精神的支えであった土屋文明先生、又落合京太郎先生の相次ぐ訃報があった。「もはや意欲もなくなりました」は作者の叫びである。その叫びは、今でも聞こえるようだ。次の作品は、両先生への作者の挽歌である。
恐れゐしことは現実となり今日拝す曽て見ざりし安らなるお顔 (土屋文明先生挽歌)
お別れの会のみ声よ三月にてかかる成行を何と言はむか
(落合京太郎先生挽歌)
歌集『流離』
『流離』の残ししもの
宮 澤 渉
歌集『流離』は『寒庭』につぐ荒井先生の第五歌集である。平成三年から平成六年までの四百三十二首をもって構成され、先生の八十一歳から八十四歳の作品群である。『流離』とされた歌集名は単に郷里をはなれて他郷にさまようと言った様な簡単なことでなく東京に於ける永く緊張した生活と帰郷後の生活に基づく感慨を込めている。
昭和二十七年三月単身上京されてアララギ発行所の事務に携さわられて四十年、平成四年三月引退された前後の人間関係の確執を含めて身近な事々を赤裸々に作品とし、歌集後記は「この期間私は脳硬塞にて入院、続いて帰郷、療養の日々を送って今日に至りました」と簡潔に記されており、そこを思うのである。これは一つのことを乗り越えた爽やかさである。
実直なりし父の一生を思ふとき心さいなむ今の生ざま
吾が裡にたしかに何かが起つてゐる両手の痺れもはや一月ひとつきなり
古里にていのち養はむ吾が思ひ心を占めて今日は幾日か
この路地を出で入りて三十余年か思ひ見れば故郷の日々を遥 か越えたり
ふるさとに帰りて後の吾が日々を考へてゐて今宵安からず
小題「暮色」「岡山ゆき」「昭和医大入院」「静かなる声」「帰郷」から各々一首を掲出した。これらの作品は言わば歌集の序の部分を占めている。自己にひき寄せた表白はやがて来るであろう厳しさを潜ませている。
吾を責むる言葉は肯定しがたけれど敢へて争ふことにもあらず
わが為事の手落ちを繰り返す電話のこゑ君は斯くの如き人だ つたのか
この信濃迄吾を中傷してくる行為何の恨みぞ十幾年の友よ
荒井先生が最も悲しみとされ心ならずも悶おなじの情を吐露された作品は、『流離』に於いては重要な位置を占めており、繰り返し読みその心を思うのである。掲出した三首は凛とした真情がある。
為す事のなくて何に出でゆく己かと心をよぎる今朝の電車に
君の心の花束を携へ帰りきて夜の闇に放つその浄き薫り
究極の寂しさを見つめた自画像を彫り深くきざみ残されている。
孫太弥能生れて二十日なり昨日より笑ひ始むとその父の電話
幾月ぶりに逢ひて抱きあげむとするをさな既に及ばず吾の手力
起きいでて幼の写真飽かず見るこのほほゑみよ正まさに菩薩の相さう
孫「太弥能」に関わる作品は歌集後半に多くあり、なごましい人間像を見るのである。
歌集『流離』は、荒井先生の転機にあって思考、怒り、和みなどに立ち向い、形さまざまに乗り越えて来られた足跡を、そのときどきの作品群として集大成された一巻であり確かな構成、語彙の選択をしっかりと受け止めなければならないのである。
歌集『しぐるる庭』
古賀多三郎
昼餉すめば再び吾は横たはる折々枕を低くして
二〇〇〇年の歌である。この歌の前に、
平成十二年十月二十二日の面影を心に今の生は過ぎゆく
という、長く病んで、亡くなられた夫人への追悼歌があり、荒井氏自身も、また病身であった。「折々枕を低くして」の、ただ、事実だけを報じたような表現に、亡き夫人へと、孤独な自分自身への、無限のかなしみが潜んでいる。「低くして」の字足らず五音の結句は、何の作意もなく、おのずからにして吐露された、言葉であろう。また亡き夫人への回想も「平成十二年十月二十二日の面影を」という、第三者から見れば、あまりにも素っ気なさ過ぎる表現であるが、それ故にこそ、表現の素っ気なさに反比例して、それが素っ気なければ、素っ気ないほど、かなしみは倍加してゆく。ここにものごとを写す、写実短歌の真実があるのではないだろうか。
土屋文明先生は、「一丁の間をただ一丁にするだけの写生だ」と、いっているそうである。これは、事実をそのままに写すということであろう。また「表現された主観の強さの度合いが個性を形づくる基本でなければならない」とも、いっているそうである。これは、強力な主観によって、とらえられた事実が、その歌の個性だということであろう。
それは、「枕低くして」「平成十二年十月二十二日の面影」は、荒井氏の主観が、この歌の何年かの後には、自分自身が、死を迎えねばならなかったほどに、老い病んでいた氏のかなしく、さびしい主観がとらえた事実であったのである。そしてその事実は、氏の主観によって、事実を超えた感動として、読む者の胸に迫ってくる。作者の主観によって、裏づけされた事実、これが写実短歌、写実文学である。荒井氏が、土屋先生のもとで、多年にわたって培ってきた成果であろう。
ここに引用した二首にかぎらず、『しぐるる庭』の作品すべてが、氏の心情がとらえた写実の歌である。
今更に言挙ぐるとも空し空し凡てがああ終つてしまつたのだ
この歌などは、この歌集のなかから、ようやくにして拾うことのできた、心象詠であるが、これさえも、荒井氏は、心象詠とは、意識していなかったのかもしれない。「生活即短歌というけれども、土屋先生ほどの生活をしていない者に、生活即短歌などいえるか」というのが、小暮政次先生の、日頃からの主張であった。確かに荒井氏は、土屋先生ほど偉大ではなく、小暮先生ほど新鮮さは、なかったかもしれない。
しかし、荒井氏には、アララギ時代からの、他と己を区別する、決してひとに組しない、自分を持する厳しい姿勢があった。氏はこの姿勢を、老い病み衰えても、終生保持しつづけた。晩年のあの清瀬の病院での歌会でも、常に厳しい歌評を、私どもに与えつづけた。この厳しさが、氏の一生をつらぬいた生活であり、短歌であった。そして、これが土屋、小暮短歌とは、異なる個性が、具現された荒井短歌であり、生前最後の歌集『しぐるる庭』なのである。
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