先進に学ぶ


 1   歌の世界96      
更新日時:
H20年12月18日(木)
 
歌の世界96      
     
                   奥山 善昭  
     
あたたかく白き牛乳と香に立ちて酸ゆき林檎と日々に恋ひつつ        柴生田 稔
 
歌集『麥の庭』の昭和二十年の作品。柴生田稔は終戦を、存続が許された陸軍病院にて迎えた。国民は食糧難に喘ぎ苦しんでいた時代である。
抄出の作品もそのような時代にあってのもので、牛乳と林檎の描写が丁寧である分、或る切実さを感じ取らせる出来上がりとなっている。結句の「日々に恋ひつつ」は悲痛な声さへ響いてくるが、文学的には想像が根本となっているためか、そう高いものといえないような気がする。見舞いに訪れた五味保義とアララギのことなどを話しあった「しかし、その後アララギに、(抄出歌)と、いささかあさましい歌を発表した時、五味さんはどう手を廻したか、「香に立ち酸ゆき林檎」をたずさえて、ふたたび私をおとずれてくださったのであった。」と『思い出す人々』の中で述べている、この折の五味の行為がよほど印象に残っていたのであろう。
文章の中の「どう手を廻したか」には、当時において、林檎などを手に入れることの困難さを思わせる。二人の友情の深さもさることながら、病気見舞いの本来の姿がある。冠婚葬祭、見舞いなども義理や付き合いの域を出なくなっている現代では考えられない心が息づいていた時代ともいえないだろうか、貧しい中にあってこその心情、それを受け止める側のつつましい思いの在り方があったような気がするのだが。
 
今日の日もわれひもじくて居るときに幼ら思ふ遠き吾子ら
『此岸集』
 
と、歌うように五味保義本人も決して裕福ではない中での行為なのであった。無論、現代の豊かさを否定するわけではないが、人を思うこととは、こういうことなのであろう。失われたともいえる、支え合う「こころ」が人間同士の中に、貧しいからこそあったのか。
    
 

 2   恂{邦雄の歌
更新日時:
H20年12月18日(木)
 
人間と短歌
    
   恂{邦雄の歌
  
                 古 賀 多三郎
   
  シャヴァンヌの「愛國」の繪にありし罅(ひび)つかれしときの心にうかぶ
 恂{邦雄のこの歌は、決して新しくはない。心がつかれたとき、シャヴァンヌの絵の小さな傷が、目裏に浮かんだという、誰にでもある心象である。こんな歌は、どこにでも、そこいらあたりにころがっているといってよいだろう。
 このような観点から恂{の歌を見ると、
  シャンパンの壜の林のかげで説く微分積分的貯蓄學
 この歌なども、酔っ払ったご隠居が、熊さん八っあんに小金を貯めておけよと、お説教をしている場面が浮かんでくるではないか。その上「壜の林」という、比喩も大した発想ではない。失礼をかえりみずにいえば通俗的ともいえよう。この通俗性は、晩年の、
  いふほどもなき夕映にあしびきの山川呉服店かがやきつ
青嵐ばさと商店街地圖に山川呉服店消し去らる
山川呉服店先代の石碑(いしぶみ)にしがみつく珈琲色のうつせみ
 これなども、とりとめのない歌としかいいようがない。「珈琲色のうつせみ」といっても、どれほどの効果があるだろうか。
  革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
 これらも世に秀歌といわれているほどのものであろうか。「皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」には、機知のひらめきは、うかがえるが、機知が歌のよさではないだろう。
 たしかに、機知の鋭さは、歌の大切な要件の一つであること間違いはない。しかし、機知で押し通した歌は、何かを失っているのではないか。
  原子爆弾官許製造工場主母堂推薦付避妊薬
法王の寝室に香をはなつ夜の檸檬(レモン)型(けい)時限爆彈装置
紅蓼のたのしき芽生え玩具用戰車製造商破産後に
 これらも読んだ当初は、面白いとは感じたが、今となっては機知だけの歌としか思えない。感動には遠いようである。
 恂{邦雄は、感動が歌の主題とは考えていないのかもしれない。または、感動のありようが、私と違っているのかもしれない。
 感動の基点が異なっていれば、批評のしようもないが、感動は、そんなに違うものであろうか。たとえば、人麿の歌、芭蕉の俳句の永遠性は、感動の共通性のうえに成立していると私は考えている。歌にかぎらず文学、芸術の新しさは、それが作られた時点では、否定されても、次世代、次々世代には必ず受け入れられることは、私どもは幾つかの事例によって知っている。
 恂{邦雄の歌が、そのような超時代性があるか、どうかは、これからの時間がきめることであり、私ごときが云々すべきことではないが、私は恂{邦雄の歌を全部否定するのではない。
  ここに男死す幕(まくあひ)の花束を奈落にはこびつかれて
 これなど、男の悲哀を詠んで、胸にひびくのである。「幕(まくあひ)の花束を奈落にはこびつかれて」に、やはり恂{邦雄らしい機知をみるが、その機知を超えて、下積みの男のやるせなさが伝わってくる。いや、そんな感情を詠んだのではないといわれれば、それまでであるが、そうであったとしても、私は、このやるせなさに心が動くのである。
  突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
 これなどは、「ここに男死す」より、もっと心打たれるのである。
満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、生まれたときから、すさまじい戦中を経てきた私にとって「撃ちぬかれたる兵士の眼」は、自分のこと以上に身にせまってくる。「突風に生卵割れ」は、作者は機知のつもりかもしれないが、これは機知ではない。これは、「撃ちぬかれたる兵士の眼」そのものである。ここに歌の真実がある。この歌は、たとえ恂{邦雄の名が短歌界から消え去っても、恂{邦雄の歌が全部否定されたとしても、この一首だけは残ると私は信じたい。このような歌を残せるのは、恂{邦雄があの戦中を生きてきたからであろう。恂{邦雄の戦争にかかわる歌は、すべてといっていいほど、いいのではないか。
  春きざすとて戦ひと戦ひの谷閧ノ覺むる幼な雲雀か
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も
原爆展觀に来てすぐにかへりゆく少女酷寒のKき手袋
 この三首は、日本人だけでなく、外国語に翻訳しても全世界の人々に、感動をあたえる歌であろう。この思いは、戦後の人間共通の感情である。これは、敗戦国のドイツ、イタリア人のみならず、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス人も、心の隅に巣くっている、一つの思いではないだろうか。
 恂{邦雄の歌の根底は、この戦中、戦後の思いではなかろうか。この根底があってこその、機知の歌なのであろう。この機知も戦中戦後を他と違った地点から見た機知なのではないか。そうのように見れば、冒頭に引用した歌も、それを詠んだ恂{邦雄の心情もわかるような気がする。ただ、それが飛躍しすぎて、言葉の遊びになってしまったところに、この人の歌があったのではないか。
 歌は、所詮遊びにすぎないのかもしれない。それはそれで、いいのであるが、短歌、文学は、そこから何かを読む者に与えなければならない、必然的に与えるものであろう。恂{邦雄の歌は、言葉に興味が移ってしまって、そこから引き返せなかったうらみがあって、残念で仕方がない。
 これほどの頭脳から、このような歌を作ったこの人に、才能を制御し、踏みとどまる意識が働いていたら、人麿、茂吉以上の歌が詠まれたことであろう。
 

 3   荒井孝
更新日時:
H18年1月21日(土)
 
 
歌集『野乾草』
 
  緊迫した時代の中
奥山 善昭
 
第一歌集。昭和十六年より昭和三十三年夏までの六百首を収載。
ひたひより汗をながして居たりけり雨乞の寺の鐘なりわたる   
後記の中の作品で、大正十三年茂吉選。とある三首中の一首で発表歌としては最初の作品。既に叙情的感覚に瑞々しい響きがある。
日の入りし地平線よりさすひかり空のまほらにけぶるいく条
野乾草やかんさう積みあぐる作業続きゐて午後四時過ぎの野の霧らひはや
拳銃はかたはらにおき今日までの調査書は鞄につめて寝につく
「第二国民兵」時代のもの。緊迫した時代の空気の中においても一、二首目に見られるような叙情的感覚が息づいている。
砲声がシベリヤの闇にきこゆればその位置と数を手さぐりに記す
特秘文書焼却の部署につきしまま朝たけぬれば腹が減りたり
十年を年いつはりて身の保全願ふは卑怯か卑怯にてもよし
今日ありて明日分かぬ時に生きあへどさまざまののぞみ吾が妻はもつ
軍役時代、二首目には「八月九日」の小題があるので戦況は切迫していたのであろうが、なんとなく軽味を感じさせるものである。又三首目には、父として夫として生きようとする必死さが滲み出ている。四首目には「十二月十四日」の小題があり、脱走して、妻と再会した後の作品であろう。事情は切迫しているのであろうが、言葉に伸びやかな響きがあってしみじみとしたものが感じ取られる。
柔やはらなる微塵の照りにひらめきてゆく鳥影のこころこほしも
朝床にめざめて吾は鳩尾みづおちより背にぬけゆきし弾おもひゐる
詞書に「四月十七日午前十一時、国府軍、八路軍の市街戦あり、偶々興安大路にて狙撃さる」とあり、入院中、退院後の作品である。一首目は入院中のものとは想像できないほどに叙情が豊かで感じ方は、荒井孝の本質を見るうえで見逃せない。作品の上に流れる豊かさと調べは、この後、作品の基調ともなる。
  無蓋貨車に足まげて寝る夜半冷えて遠き星より来くる光あり
博多港しらじら見えて涙わく一年さまざまに偲びし国土よ
後記に、「胡盧島乗船検閲の際陰蔽して来た作歌百余首を…」とあり、これらの作品は現地にて作られたものである。
今日の日も寒き二階にかへり来て冬咲く花を灯の下におく
さむ空に咲く八重桜翳もつと思ひて居りて一日は過ぎつ
四十過ぎて東京に出でしは遅かりきと君言ひしこと沁みて思ひき
あたたかくなりしこの夜を臥しをりて吾が手にとどく一冊をとる
「昭和二十七年三月、私は職を棄て単身上京、アララギ発行所の事務に携はる」とある。柴生田稔は「率直に言つて、全体として何だか淡く、物足りないところがある。」と指摘するが、その淡白さは本質なのかもしれない。
 
 
 
 
歌集『霜ぐもり』
 
 
ここに一人の覚悟を読む
                      大橋 栄一
 
歌集『霜ぐもり』は昭和三十三年から四十四年までの八百四十三首を納めた、荒井孝氏の第二歌集である。
荒井孝は、第一歌集『野乾草』の「後記」によれば、「昭和二十七年三月、私は職を棄て単身上京、アララギ発行所の事務に携はるやうになった。」とある。
  北窓の椎に光のきよくして吾が怒り少しづつをさまつてゆく
  一つ一つとわれの仕事の片づくをたのしみて今日も机に坐る
  妥協して心しばらくしづめをり吾が前に燠ひとつ灰となる
昭和三十四年の作品である。
アララギ発行所は、当時世田谷区玉川奥沢町五味保義宅の一階にあった。
五味は歌集『一つ石』の「後記」に「アララギ発行所を自宅に置く関係上、一日もその事から離れられず、アララギ会員の中に起る事柄が、いちいち私の生活にひびきました。」とその労苦を記している。荒井孝はその一端を担当したのである。「吾が怒り少しづつをさまつてゆく」や「妥協して心しばらくしづめをり」などの詠嘆にその思いが伝わってくる。
雑誌未着のしらせは今日も土浦を中心とせるところよりくる
  誤植ひとつ見いでてこころわびし今宵は何もせず坐りをり
「荒井孝の仕事は正確で、繊細である。」と私が聞いたのはもっと後年であるが、日々雑誌発行に神経を擦り減らす歌は強く心にひびいてくる。
  十年たたば汝がもとに帰らむといでこし東京に今日十二年
  われの帰りし夢を見たりと吾が妻の告げこしこころ一日思ひき
共に昭和三十九年の作品である。荒井孝は東京に、そして夫人は長野に住むという生活の中の詠嘆である。
これも後年の話であるが、ある時右手に包帯をしているので伺ったところ、「洗濯洗剤を直接手で使用したために荒れたのだ」と苦笑いしていた。私は笑うに笑えない寂しい気持ちになったことを記憶している。
  茫々とベッドに坐り居たまへば訪ねこし今日の心やりどなし
  君の病に害あれば告げぬこととして短く今日の面会終る
昭和四十年二月、五味保義は糖尿病と高血圧のため入院した。一時回復したが翌年脳血栓のため再び倒れた。
その五味保義に寄せる思いの歌二首
  病みて来まさぬ人思ひゐる夜のふけて吾が蚊帳照らす山の上の月
  人笑ふときに笑へど水のごと滲みくるこのさびしさは何
この後、荒井孝のアララギ発行への比重はさらに高くなったと思うのであるが、以前のようにそれを嘆く歌はあまり無く、強い心で仕事をしている思いが伝わる。
  つきつめて思へば謬りしことばかりたとへば東京に出でたることも
この歌を揚げて最後にしたい。
 
歌集『寒暮』
 
 
澄んだ詩の世界 
中山やすゑ
 
 歌集『寒暮』は、荒井孝先生の第三歌集で昭和五十年七月二十五日不識書院より発行された。昭和四十五年より四十九年までの四百二十六首、作者六十歳から六十五歳までのものである。
植溜のいくうねか雪の残りゐてくもりはつづく昨日も今日も
 巻頭のこの一首は、早春の何気ない風景に目をとめてそれを淡々と写しているようだ。それでいて読む者の心に何か深く沁みてくる。
 消え残った雪が畝の凹みなどにまだ見られるころ、近づく春をどこかに感じながらも地面も凍ったままの冷たい空気の、そんな日のくもりなのだ。そしてそれがつづいている。「昨日も今日も」は、明日もあさっても、おとといもその前もずっと…につながって作者の生きている今の心の内を連想させる。読み進めてゆくと他にも
窓の下の枯生をあさる鳩一つ曇りよりさす光寒くして
白々と段なす丘の空おほふ曇り海の方には光にじみて
 などなど心で捉えた「くもり」が多く詠まれている。それらは時に「春の曇り」であったり「秋寒きくもり」や「空おほふ曇り」であったりしてさまざまでありつつ、作者の立場や当時の心境が象徴的に表われてこの歌集の底を流れるひとつの感じとなっている。
君倒れすでに八年か思ひみればそれより吾がこころ消極にして
その職を抛ちて来たる日の覚悟おもひ起こせと神のこゑする
 作者荒井先生は、昭和二十七年三月単身上京して以来アララギ発行所に五味保義を助けての勤めの生活であったが、五味保義が倒れてすでに長いこの時期任されて仕事を、責任を果す日々は決して安穏平坦ではなかったと思われる。職をなげうって上京してきた時の一途な思い(歌に寄せる)、覚悟(歌に生を懸けた)さえ時には揺らぐほどの苦しみもあったにちがいない。そんな作者の心のよりどころまた安らぎとして
バッハ弾く汝が腕に光る汗深夜ふたたび風はつのりて
単純によろこび悲しむこの妻と過ぎ来て共に老いに入らむとす
故里に吾のこころ知るいくたりを光のごとく今宵思ふなり
散り残る枯葉ひらひらとあかるくてここより信濃となりし谿 の道
に見られるような家族の存在があり友らがあり稀に帰るふるさとがあった。家族や友らやふるさとへ寄せる思いも、あたたかいしみじみとした流れとして、先にみた「くもり」の調べとともに本集を貫いている。そしてこの二つの流れの上に立って、あるいは二つがひびき合ってすぐれた歌風が出来あがっているのではないだろうか。
冬すぎむ嵐吹きいでし夕ぐれに東に低く月の出の明り
庭木透す光は土に白くしていづくよりかくちなしの花の香流る
 この澄んだ詩の世界を深く味わいたい。
 
歌集『寒林』
 
 
内面への肉薄         
斎藤 彰詰
 
第四歌集『寒林』は平成四年七月石川書房より発行された。昭和五十年より平成三年までの作品千四百五十八首が収められている。
 この期間も作者はアララギの編集の実務についておられ、その後苦労は増すばかりであったようだ。その反動というべきか、作者の歌が自らの内面によりつよく向けられて来た作品が多くなったのを実感する。
われにまつはる影を亡霊の思ひして帰り来りぬ月高くなる                   
  熱出でて伏しゐる今日の微睡まどろみに何に現れしシャガールの女の顔                 
  逝く年の今宵わが掛くモーツァルトレクイエム亡き幾人の為自らの為            
わが今日の心いやさむと一人聴く冬の旅はいつか最終の曲                   
光なく空は白色にひろがりて心の沈む一日なりけり                       
 これらの歌に作者のこの後を見てもよいのであろう。「影を亡霊の思ひして」など、作者のそれまでの作品には見られなかった表現ではあるまいか。「今日の微睡に何に現れしシャガールの女の顔」も表現が大胆である。その究極には自らの内面に肉薄する意識があったと思われるのだがどうだろう。
停年の友等あたらしき職得しをよろこびとして昨日より今日                  
校了紙渡し来て茫々とゐる午後か陰立つゴムの一鉢のまへ                     
今少し簡潔に表はし得ぬものか読み終へていらいらと原稿を 閉づ               
 アララギの編集の実務の中から生まれた歌。それぞれ作者の人柄が滲み出ていると思う。
ここより信濃となりてこころしたし向ふ北空はすでに夕靄                   
花終へし素心蘭一鉢も取りこみて故郷に帰らむ心あはただし                
霧の中馬臭ひ近づきし馬の影見つつのぼり来て更に高き丘                   
 アララギの仕事の合間を故郷信濃に帰られる。その時の歌はどれも良いと思う。「心あはただし」など、作者の弾んだ心持がよく出ている。
わが知らぬウィーンの一室に如何にゐる東京は昨日も今日も雪空              
募りくる冷えに夕早く雨戸引きぬ病み臥す妻の為老われの為                
父母の後姉にはぐくまれし十五年干渉せぬ妻との四十年                    
 肉親を詠んだ三首、作者の思いが伝わる作品である。これらに見られる通り作者の歌は平明である。ゆえに、読者の共感を得る作品が多いと言える。
 『寒林』の「後記」に作者は「この期間も雑誌アララギの編集業務に従ひ、相変らずの日々を繰りかへして来ましたが、このところ私にはかけがへのない諸先進を相次ぎて失ひ、又、健康状態も悪しくもはや意欲もなくなりましたので、本年三月を以って昭和二十七年三月より従事して参りました四十年の業務から引退いたすことにしました。」と記している。
五味保義先生亡きあと、作者の精神的支えであった土屋文明先生、又落合京太郎先生の相次ぐ訃報があった。「もはや意欲もなくなりました」は作者の叫びである。その叫びは、今でも聞こえるようだ。次の作品は、両先生への作者の挽歌である。
恐れゐしことは現実となり今日拝す曽て見ざりし安らなるお顔                 (土屋文明先生挽歌) 
お別れの会のみ声よ三月にてかかる成行を何と言はむか 
(落合京太郎先生挽歌)      
 
歌集『流離』
 
 
『流離』の残ししもの  
宮 澤  渉
 
歌集『流離』は『寒庭』につぐ荒井先生の第五歌集である。平成三年から平成六年までの四百三十二首をもって構成され、先生の八十一歳から八十四歳の作品群である。『流離』とされた歌集名は単に郷里をはなれて他郷にさまようと言った様な簡単なことでなく東京に於ける永く緊張した生活と帰郷後の生活に基づく感慨を込めている。
昭和二十七年三月単身上京されてアララギ発行所の事務に携さわられて四十年、平成四年三月引退された前後の人間関係の確執を含めて身近な事々を赤裸々に作品とし、歌集後記は「この期間私は脳硬塞にて入院、続いて帰郷、療養の日々を送って今日に至りました」と簡潔に記されており、そこを思うのである。これは一つのことを乗り越えた爽やかさである。
実直なりし父の一生を思ふとき心さいなむ今の生ざま
吾が裡にたしかに何かが起つてゐる両手の痺れもはや一月ひとつきなり
古里にていのち養はむ吾が思ひ心を占めて今日は幾日か
この路地を出で入りて三十余年か思ひ見れば故郷の日々を遥 か越えたり
ふるさとに帰りて後の吾が日々を考へてゐて今宵安からず
小題「暮色」「岡山ゆき」「昭和医大入院」「静かなる声」「帰郷」から各々一首を掲出した。これらの作品は言わば歌集の序の部分を占めている。自己にひき寄せた表白はやがて来るであろう厳しさを潜ませている。
吾を責むる言葉は肯定しがたけれど敢へて争ふことにもあらず
わが為事の手落ちを繰り返す電話のこゑ君は斯くの如き人だ つたのか
この信濃迄吾を中傷してくる行為何の恨みぞ十幾年の友よ
荒井先生が最も悲しみとされ心ならずも悶おなじの情を吐露された作品は、『流離』に於いては重要な位置を占めており、繰り返し読みその心を思うのである。掲出した三首は凛とした真情がある。
為す事のなくて何に出でゆく己かと心をよぎる今朝の電車に
君の心の花束を携へ帰りきて夜の闇に放つその浄き薫り
究極の寂しさを見つめた自画像を彫り深くきざみ残されている。
孫太弥能生れて二十日なり昨日より笑ひ始むとその父の電話
幾月ぶりに逢ひて抱きあげむとするをさな既に及ばず吾の手力
起きいでて幼の写真飽かず見るこのほほゑみよ正まさに菩薩の相さう
孫「太弥能」に関わる作品は歌集後半に多くあり、なごましい人間像を見るのである。
歌集『流離』は、荒井先生の転機にあって思考、怒り、和みなどに立ち向い、形さまざまに乗り越えて来られた足跡を、そのときどきの作品群として集大成された一巻であり確かな構成、語彙の選択をしっかりと受け止めなければならないのである。
 
歌集『しぐるる庭』
 
 
 
古賀多三郎
 
昼餉すめば再び吾は横たはる折々枕を低くして
二〇〇〇年の歌である。この歌の前に、
平成十二年十月二十二日の面影を心に今の生は過ぎゆく
という、長く病んで、亡くなられた夫人への追悼歌があり、荒井氏自身も、また病身であった。「折々枕を低くして」の、ただ、事実だけを報じたような表現に、亡き夫人へと、孤独な自分自身への、無限のかなしみが潜んでいる。「低くして」の字足らず五音の結句は、何の作意もなく、おのずからにして吐露された、言葉であろう。また亡き夫人への回想も「平成十二年十月二十二日の面影を」という、第三者から見れば、あまりにも素っ気なさ過ぎる表現であるが、それ故にこそ、表現の素っ気なさに反比例して、それが素っ気なければ、素っ気ないほど、かなしみは倍加してゆく。ここにものごとを写す、写実短歌の真実があるのではないだろうか。
土屋文明先生は、「一丁の間をただ一丁にするだけの写生だ」と、いっているそうである。これは、事実をそのままに写すということであろう。また「表現された主観の強さの度合いが個性を形づくる基本でなければならない」とも、いっているそうである。これは、強力な主観によって、とらえられた事実が、その歌の個性だということであろう。
それは、「枕低くして」「平成十二年十月二十二日の面影」は、荒井氏の主観が、この歌の何年かの後には、自分自身が、死を迎えねばならなかったほどに、老い病んでいた氏のかなしく、さびしい主観がとらえた事実であったのである。そしてその事実は、氏の主観によって、事実を超えた感動として、読む者の胸に迫ってくる。作者の主観によって、裏づけされた事実、これが写実短歌、写実文学である。荒井氏が、土屋先生のもとで、多年にわたって培ってきた成果であろう。
ここに引用した二首にかぎらず、『しぐるる庭』の作品すべてが、氏の心情がとらえた写実の歌である。
今更に言挙ぐるとも空し空し凡てがああ終つてしまつたのだ
この歌などは、この歌集のなかから、ようやくにして拾うことのできた、心象詠であるが、これさえも、荒井氏は、心象詠とは、意識していなかったのかもしれない。「生活即短歌というけれども、土屋先生ほどの生活をしていない者に、生活即短歌などいえるか」というのが、小暮政次先生の、日頃からの主張であった。確かに荒井氏は、土屋先生ほど偉大ではなく、小暮先生ほど新鮮さは、なかったかもしれない。
しかし、荒井氏には、アララギ時代からの、他と己を区別する、決してひとに組しない、自分を持する厳しい姿勢があった。氏はこの姿勢を、老い病み衰えても、終生保持しつづけた。晩年のあの清瀬の病院での歌会でも、常に厳しい歌評を、私どもに与えつづけた。この厳しさが、氏の一生をつらぬいた生活であり、短歌であった。そして、これが土屋、小暮短歌とは、異なる個性が、具現された荒井短歌であり、生前最後の歌集『しぐるる庭』なのである。
 

 4   宮地 伸一
更新日時:
H17年10月24日(月)
 
歌の世界62       大河原 惇行
 
ひとり来てひとり酒飲む楽しみもやうやくに知るこの路地の店に                     宮地 伸一
 
宮地伸一氏の歌集『続葛飾』の一首である。一読して、このような何でもない歌に、こころを引かれる。路地の店にひとり出てきて、酒を飲むだけの内容だが、そのことを「やうやくに知る」と捉えて、確かにここに、この作者の世界があるとい言っていい。そして その境涯が見えてくるのだ。
 
卵割るこの拙さよ顧(かへり)みれば小学校の頃と変らず
 
こういう歌もあって、いかにも親しみを覚える歌集だ。それでも、次のような歌となると、もう少し本格的に作って欲しいと思うのである。
 
言ふべきか否か娘はとぎし米をかくもこぼして拾ふことなし
 
その通りの歌であり、「言ふべきか否か」は茂吉から来ているのであろうが、この表現が必要であるのかどうか、そのことを思うのである。こう説明して、一人の思いであるのだが、日常茶飯の歌になってしまったのではないか。
平成になって、多くの先進を失っている。土屋文明、柴生田稔、吉田正俊、小暮政次など、上げれば切りがない。そして、先行世代として今、小市巳世司、清水房雄、宮地伸一しかいなくなってしまった。この人たちの作品とその世界に立ち向かうことも、己を奮い立たせるということだろう。
 
 

 5   高田浪吉
更新日時:
H17年10月24日(月)
 
 
   高田浪吉の歌    
玲 はる名
 
 大正・昭和と本を開いていて、新しい歌人を読むたびに、その師というのがことごとく赤彦であることに驚く。わたしもそうだが、今の若い人たちには、とにかく茂吉に人気が集中するのであるが、それは茂吉そのものが持っているスター性というか、派手さにあるのではないか。アララギは多様で楽しい。
 
山ふかく露にしめれり黄葉もみぢの中に小鳥の啼き合ひにけり
             
最もシンプルで模範的な万葉調の歌なのではないかと思う。露というのは朝露であろうか、銀杏の葉の黄色が山林一面に広がっている情景が浮かんでくる。姿のない小鳥の啼く声を書くことによって、歌の中に作者の視界全体を読み込むことができている。
ところで、わたしはしばしば「万葉調」という言葉を使うことに戸惑いを覚える。額田王調・人麻呂調・赤人調ならともかく、万葉調というのは括りとしては大きすぎるのではないかと思うのだ。
いい機会なので、「万葉調」を引くと、万葉集に特徴的な歌風・歌調。発想・内容としては生活感情と密接し、素朴・直截あるいは率直・切実で、またしばしば雄大・荘重である。修辞的には五七調すなわち二句・四句切れが多く、枕詞・序詞の使用も多い。賀茂真淵は「ますらおぶり」と呼んだ。
 
ということなのである。「山ふかく」の歌にしても、日々の生活の情景を朴訥に詠んだ歌であり、素直に自然やそこに生きるものを愛する気持ちに溢れた歌だ。自然というものはそれだけで荘厳なものなのかもしれないが、この歌も派手さはないが、山の大きさや静かさを充分に伝えいている。
 
おしなべて山の黄葉いろ褪せぬ朝あしたのつゆのただしとどなる  (甲斐御獄)
夕つ日の光さし入る谷あひにひととき映
ゆるもみぢ葉の色
 
このような歌も万葉調ということになるのだろうか。
つい思ってしまうのは「万葉調=自然詠」なのではないか、ということだ。大誤解であることを頭では分かっているのだが、では、都会の中で、稀有な自然を描く以外に万葉調を意識した歌を書くことができるのだろうか。
もっと言えば、万葉調の良さを、自然詠以外に見出すことができるのだろうか、という問いである。
高田浪吉という歌人は震災詠を多く残しているが、ものごとを感情だけではなく、生命の有様として、事実を引き受けた上で、嘆きや祈りを歌の中に詠むことができた人なのではないか。
 
人々のせむすべ知らに渡りゆく橋の上よ
り火は燃ゆるなり     (震災詠)
人ごゑも絶えはてにけり家焼くる炎のな
かに日は沈みつつ
 
「人々の」にある情景は正に地獄絵図である。逃げ惑う人々が助けを求めて橋の上を行く姿である。「せむすべ知らに」は主観ではあるが、実際の人々の形相を描くのではなく、「火は燃ゆるなり」と橋の姿全体を書くことによって、恐怖を伝えるのではなく、むしろ残酷な震災の有様が現れているように思う。
ここで浪吉が訴えたかったことは恐怖ではなく、震災の残酷さや、それによって失われるものへの無念さではないかと思うのだ。
「人ごゑも」の歌には、特に印象的な内容に打ちのめされる。「家焼くる炎のなかに日は沈みつつ」は家が焼けている情景も強烈ではあるが、事実を一旦引き受けた上で、家を焼き尽くす長い一日の終わりの太陽の沈む情景を端的に描写しているところが率直且つ切実である。
心での引き受け方は、実際に荘厳なのだと思う。なにか、運命に沙汰され、声も無くすほど叫んだ先にあるものは、神がかり的に脳裏へ言葉や感覚を残すのではないか。
それが「日は沈みつつ」なのである。家を焼く火と照らし合わされた太陽の色彩的コントラストは、想像の中から生み出すことのできないものである。
 
また、浪吉の震災詠に特徴的なのは、客観的に自然の残酷さを伝えながらも、ニュース的ではなく、あくまで個人的なところである。
 
たのめなきこの世のさまや人々の亡がら
越えてうから探すも
亡がらを見るに術なきおもひすも歩みつ
づけてわがゐたりけり
焼け死にて人のかたちはわからねど妹どちか母かと思ふ
 
このような絶望の淵にあって、自らの姿をある視点からは冷静に見つめ、端的に心と事実を捉え、差し引きなく歌に収めることは、実際難しいだろう。被害者的な意識が強かったり、恨みに転じてしまうことがあっては、「たのめなきこの世」という言葉も嫌らしいものになってしまう。人間そのものの卑しさがあっては、歌の叙情とは違うものになってしまうのだと思う。
 
高田浪吉の歌の例から考えると「万葉調」という言葉の中には、人間そのものを等身大に描くことというような意味が込められているのではないかと思う。そうであれば、現代を生きるわたしたちも、歌を作るために無理をして山や川に行くのではなく、都会の生活の中から、自然で率直な歌を書くことができるのではないか、という希望も見えてくるも
のである。
 
雷の鳴りて来るを恐がりて子ども寄りゐ
る食卓の前
夜くだちの栗の林の上にある月の明りは
白くおもほゆ
高原の日ぐれをわたりゆきにける十一の
こゑ空にきこえて
 
これらの歌の情景は特別に山中や海に出かけたものでもない。生活の中でのありふれた情景である。ただ、やはり稀有なのは事実を捉え、一旦引き受けた上で、自分の感情を見極め、それをただ歌に流し込むのではなく歌としてもっとも効果的な言葉を吟味し、無駄な部分を削ぐ能力だ。
雷に子どもが寄ってくる姿や、林の上に月が上ること、また、高原の日暮れの情景も珍しくはない。それを、この一瞬のもの、この時だけの光度にさせているものは、食卓の前であり、白くおもほゆ、十一のこゑ空にきこえてなど、視界の中にある無駄なものを削ぎ落とした後に残った言葉なのではないだろうか。
 
 

 6   有間皇子
更新日時:
H17年10月24日(月)
 
天と赤兄と知らむ     大のトクヱ
 
   有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあれば また帰り見む
                       (万・一四一)
  家なれば 筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
                       (万・一四二)
貴子流離。何ゆえに有間皇子はたぶらかされ絞られしや。伊藤博
『万葉集釋注』ではいう。
「::白雉四年(六五三)難波の宮にあった孝徳帝と皇太子中大
兄皇子とのあいだで遷都をめぐって意見が衝突、皇太子は皇祖母尊
(母皇極上皇)間人皇后(妹間人皇女)および皇弟(弟大海人皇子)
らを引き連れて、飛鳥の河辺行宮(かわべのかりみや)に移ってしまった。公卿太
夫、百官たちもことごとく随ったという。ひとりとり残されて皇位
の実権を失った孝徳帝は退位を考えたり、皇后間人に思いを寄せた
りして悶々の日を送っていたが翌五年難波の宮で孤独な生涯を閉じ
た。孝徳帝と小足媛とのあいだに生れた孝徳帝唯一の子、時にとっ
て十五歳の有間皇子の生涯は、すでにこの時に暗い大きな星を負っ
た。
母が皇女の身分ではないとはいえ、先帝のたった一人の皇子であ
る。皇位継承の有力候補であったというべく、この皇子の高邁な成
長は、孝徳帝を死に追いやった中大兄皇子にとっては不気味という
ほかない。早晩、何らかの方法で処置しなければならない。その気
配を身にしみて感じとっていたのは当の有間皇子であった」少し面
倒だけれども注釈をしながら『日本書紀』を見ていく。
 
九月一日斉明三年(六五七)有間皇子性黠さとくして(わるがしこ
くて=殺した側の史書である事を思へ)陽狂いつはりたぶれす(気ちがいの
まね)。牟婁むろ=白浜湯泉の湯に 往き病を療おさむる偽まねして来
まゐき=都へ帰ってきて、国の体勢(なり=白浜のようす)を讃めて
曰く「わづかにその地を観るのみに、病自づから消のぞこりぬ」
と云云しかしかいふ。
天皇聞しめして悦びたまひ往しまして観みそこなはさむと思ほす。
冬十月、斉明四年(六五八) 庚戌の朔にして甲子(十五日)に
紀温湯(白浜のむろのゆ)に幸す。
 
ここから記語にする。物語性がつよいので解り易く。
 
十一月、斉明四年(六五八)の三日、留居番役の蘇我赤兄が有間
皇子に語っていう。「天皇の政治で三ッのあやまりがある。その
一つは大きい倉庫を建てて、租税を重くして民の財をとりたてるこ
と。二ッめは長く渠水を掘って公の食糧をそのためにつかいすぎる。
三ッめは舟に石を積んで運んで土木工事をして丘にすることだ」そ
れで有間皇子は赤兄が自分に好意をもってくれているんだなと思っ
て「吾ははじめて兵を用いるときが来た」という。
翌々日の五日に有間皇子は赤兄の家に行って高殿にのぼってはか
りごとをめぐらす。するとその時、脇息が何もしないのに折れたの
で、これは不吉なしるしだとさとって、その謀叛計画を中止した。
皇子は自宅に帰ってやすむ。
さあ、この夜半に赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのゐのむらじしびをつかわして、
宮造りの丁(よほろ)をひきいて有間皇子の家をとりかこんでしまう。
そしてすぐに早馬を走らせて天皇にお知らせする。
赤兄と謀ろうとしてから更に四日たった九日に、有間皇子と守君
大石もりのきみおほいは・坂合部連薬 さかひべのむらじくすり・塩屋連・魚しほやのむらじこのしろ とを捉えて
紀の湯にお送りした。舎人の新田部米麻呂も従わせて。
 
また原文にもどる。有間皇子のスゴイ発言がある。
 
皇太子、親ら有間皇子に問ひて曰く。「何の故にか謀反みかどかたぶけむ
とする」とのたまふ。答へて曰まうさく「天あめと赤兄と知らむ。吾
全おのれもはら解しらず」とまうす。
庚寅かのえとらの日=十一日に丹比小澤連国襲たぢひのをざはのむらじくにそを遣して、有
間皇子を藤白坂に絞らしむ。この日に塩屋連・魚・舎人新田部連
米麻呂を藤白坂に斬る。
注=高貴の人は絞首刑、腕で。低い身分の従者などは斬る。
 
普通にいえばイトコに当るか、訊問する皇太子中大兄皇子に向っ
て、有間皇子は毅然として、もしかしたら指をさして言ったかも知
れない。
「君君と赤兄が知っているではないか、(今更しらしら 聞か
なくても)私は全く(このからくりは)知らない」
この時有間皇子十九歳(満では十八歳)
 
なお土屋文明『万葉集私注』では「代匠記初校本」をひく。
此の二首の御歌にその折の御こころ、たましひとなりてやどれる
にや、かなしきことかぎりなし。孝徳天皇の御子にて御位につかせ
たまふことはなくとも、さておはしまさば、世におもくせられてお
はしますべきに、よしなき事おもひたたせまひて、刑戮のはづかし
めにさへあわせたまふは、不思議のことなれど、此御歌の残りて、
他の皇子たちの身をたもちて世を過させたまひながら、何のしるさ
れ事もおはしまさぬよりも、末の世まで人の知まゐらすることはひ
とつに和歌の徳なり。
 
右は土屋文明の心情を代弁していよう。
また大津皇子、有間皇子の事件≠虚構だったとする説がある
がこれは一つの学説としておけばいいのではないか。
 
 
 

 7   山口茂吉   玲 はる名
更新日時:
H17年4月6日(水)
 
  山口茂吉   玲 はる名
 
  珈琲を飲みすぎたりと顧みて思ふこのごろ吾痩せにけり     山口 茂吉
 
雑誌やネットの記述などを読むとき、新しい書き手や、ある程度作歌を続けてきた人たちにおいても「アララギ」に対する認識に違和を感じることがよくある。異論を唱えてることもあるが、大体徒労に終わる。多くの歌人たちは「写生」や「写実」など一言で端的に理解できさえすれば、複雑な作風の歴史を学ぶ必要はないのだろう。
 その場の評論や記事を間に合わす為だけの知識ならばそれでよいだろうが、歌風というものは本来歌を書くために存在するものだ。歌を書く上では、「写生」や「写実」などの言葉の本来の意味について、深く考え理解しようとする態度は自然と沸いてくるものではないだろうか。
 冒頭の山口茂吉の一首は、珈琲を飲みすぎてしまった数日または一定期間の自分を生活を顧みて、最近痩せたと思ったというだけの歌である。これは、静物や景色の描写でもないし、取るに足らない身の回りのことを歌にしただけの歌だというように、通り過ぎてしまう読者もいるのではないか。
 「珈琲を飲みすぎたり」という言葉を額面通りに読めば、この歌は多忙な生活の中で、不摂生をしてしまった、という後悔の歌で、個人的な内容に留まる歌ということになる。多少深読みするとしても、その多忙な姿に現代性を感じるという程度であろう。
 しかし、生きている人間を書くということは、もう少し、複雑で読みにくく、個々により不透明さのあるものなのだろうと思う。一言で表すことができないからこそ、詩や短歌といった文学は必要とされ、成立するのではないだろうか。
  
  瓶にさす藤の花房みじかければたたみの上にとどかざりけり   正岡 子規
  赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり    斎藤 茂吉
  この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず   土屋 文明
 
 三首はいずれも代表作である。これらの歌はどれも植物が登場し、最も美しい姿と対比される生の終わりについて描かれているが、その上で語られようとしている人間の有様というのは一様ではない。
 一首目の子規が藤の花の垂れる姿を描写しながらも、歌の真意には生きたいと切実に願う子規の心が描かれている。
 茂吉の歌も赤茄子の果て行く姿を、色彩のインパクトによって見事に描写しているが、死というものの本質を決定的に言いえている。
 文明の歌は作品の額面だけを読むと、赤茄子の歌と同様に朽ちてゆく植物の姿を描いているようではあるが、読み比べてみると、睡蓮の花にはより、人間の愛する心について述べられているように思う。
 わたしたちが作品を読む上で大切なのは、どのような技術を持って書かれたか、また、なにを上手に表現したかよりも、作者が何を心に握っていたか、何を確信していたか、ということをきちんと理解することだと思う。大切なことであるし、また、その方が「アララギ」の歌に触れることが断然楽しいではないか。
 注意しておきたいのは、これらは初めに描写や表現が出来ている上でのことで、抽象的な歌を拡大解釈するのとは意味合いが違うということだ。
 それを踏まえた上で、冒頭の山口茂吉の歌をもう一度読んでみる。
 珈琲を飲み続けるのは、もちろん嗜好物だからなのだろうが、それにしても痩せるまで飲むこと、また、それに気づいていないことに心の闇の部分が表われている。その事実自体は別に病気ではなく、はにかんで微笑む程度の余裕さえ歌からは感じられるが、読んでいる方には危険で只ならぬ雰囲気が伝わってくる。
  
  われ思ふ気づかずにゐて人々のなさけおろそかにせしこともあらむ
山口 茂吉
 
 この歌も作者がふと気づいたことを歌にしているものだが、この心境を心にしまっておかず歌にして発表する作者の性格というのは次のような歌を産む。
  
  九百人あまりの社員が食堂に蒲焼を食ふけふの昼食に      山口 茂吉
  おのづから秋づきし陽のきびしさは鋪道に照りてアスファルト溶けぬ
  銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ
  のぼり行く道々われは火山弾いくつも見つけぬ裕いで来て
  勤退けて歩けり巷の宵闇にマンホールの蓋閉ぢる音せり
  クールベのプロマエの肖像が森鴎外外先生に今夜いたく似てをり
 
 珈琲の歌が特別にシニカルなのかと思えば、驚かされる歌がたくさんある。一首目の九百人で蒲焼を食べる歌。アスファルトが溶けているように見えてしまっている歌。若い女性が貞操について話している声に耳がダンボになってしまっている歌。歩いている内に、火山弾ばかりを探してしまっている歌。宵闇にマンホールの蓋の音にまで心が研ぎ澄まされている歌。この夜だけプロマエの肖像が鴎外に見えてしまう歌。
 若干早足で六首を追ってしまったが、これらの歌にある作者の持つ危険な雰囲気は興味深い。シニカルと書いたが、他者に対しての皮肉というよりは、一個の人間である自分自身、〈我〉に向かって描かれ続けたのだろう。蒲焼やアスファルトを詠っていながらも、これらの歌の根底に流れているものは、己の心理の微動を見据えようとする作者の姿であるように思うのだ。
 手堅い手法のなかに心情を抒べて安定を保っている。茂吉門にも種種個性的な方向があるが、この作者はそれらを総合して代表した観があり、それだけに典型的な茂吉門を思わせるが(中略)時として年齢の差を超え一切の経験をも超えて平均的な茂吉的なるものを示す所余に茂吉的であることに不安を感じさせる。          (岡山  巌)
など、模倣的とする批評もあった。しかし、
 
  午後の日のつよく差し入る事務室に松葉牡丹の黄なる花むら   山口 茂吉
 
 例えばこのような歌の中に、ゴッホのひまわりを想像したのだが、「ファン・ゴッホの向日葵の絵をおもひつきてかたはらの壁に鋲にて止めつ」という歌もあり、常々作者の中にゴッホの強烈な色彩や筆のタッチが無意識下にあったように思う。ゴッホではないが、山口茂吉には自分を追い詰めて書く気質があり、達観したところや、経験を上回る側面があったのだろう。
 

 8   土田耕平
更新日時:
H16年12月24日(金)
 
叙情へのエフェクト(6)
 
土田耕平の歌
           玲 はる名
  
 土田耕平は若くして赤彦の門に入った。生
涯、不眠症、胃病、心臓病などの病いを煩い、
その病魔と戦いながら歌を書きつづけた。
 身近な自然を己の生命に引き寄せて、ささ
やかな短歌に仕上げる独特の作風で、病の中
にあるとは思えないような穏やかな歌を多く
残している。
 
  おのづからみ冬にむかふ寒風は竹のはや
  しに音たつるなり     土田耕平
 
 冬という苦難に向おうとする強い意志の表
われを読んで取れる。しかし、ここに詠われ
ているのは、誰かや己を元気付けようとい
う歌ではない。あくまで「なり」という詠嘆
なのである。この詠嘆の姿勢が、土田耕平の
歌の世界を清澄なものにしている。
 下句は常套的といえば、それまでだが上句
で心情を直接的に書き、下句は目で実際に見
たのか、耳で聞いたものを書いたのかは知ら
ないが、控えめな情景描写に徹している。下
句については、書かれている以上の意味を、
和歌のように読む必要はないだろう。
 ところで、この歌は「おのづからみ冬にむ
かふ」で意味として一度切れるのか、それと
も「おのづからみ冬に向う寒風は」となるの
かによって、若干内容が変わる。
 前者であれば、自分がみ冬に向う心積もり
を詠った歌になる。後者であれば風が自ら冬
へ向う、ないしは、冬を迎え入れるという上
句になる。わたしの感触では、後者の方で、
季節の変わり目の風を描写したものではない
かと思われる。
 しかし、これらの例を見ていると、どうも
前者の方のようなのだ。
 
  たそがれて久しと思ふ砂の上に日のほと
  ぼりのなほ残りたる
  目をとぢて暫らくむなし天つ日はわが額
  のへに沁みわたるなり
  春いまだ浅しとおもふ山の原月照りわた
  りものの香もなし
  帰り来てひとりし悲し灯のもとに着物を
  とけば砂こぼれけり
 
 「たそがれて久しと思ふ」「目をとぢて暫
らくむなし」「春いまだ浅しとおもふ」「帰り来てひとりし悲し」名詞に掛かる前の言葉が自己感情の発露になっているものが多い。
 もし、冒頭の「おのづからみ冬にむかふ」
が耕平自身が病を抱えながら「冬」という苦
難の季節を生きようとする決意を歌にしたも
のであるのならば、なんと、穏やかな病への
宣戦布告であろう。特別な死生観を持つ人な
のではないかと思ったのである。
 それもそのはず、土田耕平は仏教系の信者
であったという。
 
  山かげのものしづけさや今日すでに蝉声
  絶えしことに気付けり
  さながらにあらしの後の島原を月影さや
  に照しつるかも
  わたくしの命ともなし徘徊たもとほり霜の光を踏みつついまは
  赤とんぼすでに飛びかふ夕日空萎えしい
  のちも歓びに似つ
  読む書もかぎりてすごす今にしてこじき
  にまさるたのしさはなし
 
 一首目は静かになった山かげの静かさを歌
にしている。自らがしばらく滞在している場
所でありながら、蝉の音が聞こえなくなった
ことに気付いた歌である。季節の移り変わり
を歌にすると共に「絶えし」という言葉を選
択することにより、蝉の命へも心が向けられ
ている。
 二首目は「島原の乱」を知識に持っていて
の歌かもしれない。平凡で面白みのない歌と
も言える。「つるかも」照らしているのであ
ろうか、という詠嘆である。激しい戦いのあ
った島原を思い偲ぶ心が伺える。島原の乱は
キリスト教の戦いでもあった。土田耕平自身
は仏教系の信者であるが、そういう宗教観を
達観したところに、この歌の趣はある。
 三首目は耕平の歌にしては、はっきりと己
の命について語っている。上句では仏教で言
うところの輪廻について詠んでいるのだと思
われるが、下句の「霜の光を踏みつついまは」
が、如何にもさり気なく、また華美のない、
等身大の自然の美しさを表現している。そこ
に真実が語られていることを実感できる。
 四首目も一首目同様、普通に情景を歌にし
つつ「萎えし命」という、ある種達観した死
生観を歌の中に持ち込んでいる。
 五首目は三首目と少し関わる生き方・生き
様について詠った歌であるが、「こじきにま
さるたのしさはなし」は本当の「こじき」を
詠ったものとは少し違うであろう。「精神的
こじき」とでも言おうか。蓄えるのではなく、
不足している情況で、必要なものだけを世界
から頂く暮らしが、楽しいと詠んでいるので
はないだろうか。
 病にある耕平は蓄えるということには興味
を持っていなかったのだろう。その姿勢が耕
平自身の歌の世界を豊かにしている。
 
  しぐれ降る寒夜となりぬ蝋燭のあかりと
  どかぬ高き天井
  有明の月の光やのこるらし白々として枯
  桑のはら
  草合歓はすでにねむれり夕暮れの岡のへ
  帰れば空のあかるさ
  雁の列やうやく近くわがあふぐ眼上を過
  ぐその腹白し
  この頃の月は北寄りにいできたる枯々白
  しわが背戸の庭
 
 「あかりとどかぬ高き天井」「白々として
枯桑のはら」「岡へ帰れば空のあかるさ」「過ぐその腹白し」「「枯々白しわが背戸の庭」
など、いずれも穏やかで、静かな叙情を漂わ
せている。
 土田耕平は穏やかなだけの歌人、作家だっ
かといえば、そういう訳けではない、自分の
創作や生きる道を貫くべきところは、真っ直
ぐに貫いた人であった。
 
  新しい年も五日経てしまひました。たゞ
  一人胸の中に母をしのび恋ひ慕ふて泣く
  私を憐れむで下さい、悲しい悲哉は私ひ
  とりの胸に秘め隠された宝石のやうなも
  のです。いつまでも私はひとりで泣かな
  くてはいけないのであります。沈黙!
  孤独! この二つの古い然し永へに新し
  い言葉が今は私の上に来ました。今年一
  年を私はかうして歩まねばならぬのであ
  ります。新しく生れ出なくてはならない
  自分を静かに省みます。友達を離れ先輩
  を離れて私は暫く独りの路を歩まうと思
  ひます。「母の菩提を葬ふために頭を働
  かそう」私は涙をふいて進まうと思ひま
  す。(伊藤蓋宛の手紙『土田耕平論』新
  井章・著より)
 
 強い意志は神懸り的に作品へ叙情を与えた。
 

 9   落合京太郎
更新日時:
H16年11月25日(木)
 
  炎ゆる道           大のトクヱ
 
泣きながら読んだ。
冷静にクールになって読まなければこの歌の評は出来ないゾと心の隅でおもいつつ。しかし言っておくけどそんなにお涙頂戴のもの
に乗るわけではないし、この文はいわゆる歌評ではないよ。したがって引用歌が多かろうと、一首一首丁寧に受け取ってほしい。
 
『落合京太郎歌集』
昭和二十二年(四十二歳)
炎ゆる道も潮の路も長かりき恋ひ恋ひて来ぬ汝は何処ぞ
          五月十五日帰還、初めて子の亡きを知る
 
「著者略歴」によると、昭和十七年(三十七歳)
八月陸軍司政官、馬来軍政監部司法科勤務
    任地シンガポールその他( 〜昭和二十一年五月)
「炎ゆる道」はそのシンガポール、他、移動したであろう南の島々の炎熱の道であり、「潮の路」は当然故国日本への道だろう。
太平洋戦争は戦線を無理して無理して南方の島々に拡大、やがて完全な敗け戦となり、幾多の若い命を失ったのだったが、氏は幸に無
事帰国、帰りついてはじめてまだ幼かった愛娘の死を知る。お名前は比呂。(昭和十六年十一月九日生。昭和二十年六月十三日に亡く
なった。病名、疫痢。四歳八ヶ月)。
 
幾度か安良太は吾の夢に在りき夢に見ざりき比呂よ亡きかも
海べゆく汽車の夢にもパン買ひて帰る夢にもあらざりき汝は
ひもじさを堪へて持ち来し箱ひとつ張りし戒名の下に供ふる
たどりつきて「南燃」の泉飲むときも此の箱を持ち吾は思ひき
帰らざらむ故里に汝を埋めしか厭足らぬかなやこの戒名も
ものなべて炎ゆる国にして歯痒くも汝が面輪さへ父は忘れぬ
熱き国に在りて忘れし面影よかきさぐる如われは思はぞ
諸共に住みし間より離れ居し年月長く汝を死なしむ
敗戦のきざしの中を帰り来て短き間居しをぞ思ふ
おぶひ来て冬野の上の石原に霜やけし足を汝は痒ゆがる
(あぎと)痩せて夕餉の膳に安良太あればせつなくなりぬ居るかとぞ思ふ
われ死にて汝と安良太と母を中に立つは思ひき決めて思ひき
花咲く楝の上に月は出づおとなしく居れよ逢ふその日まで
 
言うまでもない事だけれども「逢ふその日まで」はお墓参りに会うなどというものではない。界を共にする( 冥界を)、そうしては
じめて比呂に会える。その日までおとなしく待って居るんだよ――。その前の作品で吾は死んで(戦地でなりと)妻と子供二人立つ、
安良太と比呂と、そうとしか父は思って居なかったのだ。昭和十六年十一月、比呂は生れ父京太郎の馬来軍政勤務が昭和十七年八月と
すれば、父と比呂はわずか十ヶ月間共にあったわけで、その後昭和二十一年五月帰還までの五年間は離れて居り「共に住みしより離れ
居し年月長く」はその事実を言ったのでありかくして「汝を死なしめ」たのだった。
「汝は何処ぞ」冒頭一首目の結句は絶唱とも悲唱とも何とも言いようのない父性愛の真裸の叫びでなくて何だろう。
多く難解な専門用語、しかも多岐、固い巌を思わせる声調の、落合京太郎の、右の一連の作品に見る血を吐くおもいは涙をさそうば
かりではない、蕭然とした人間存在の「愛」のありようを思わせる。この作者の紅い血を浴びて私達は作歌の態度を清めねばならないだろう。
更に七年経った昭和二十九年、少し冷静になって更に「汝」を思う。
 
神々の死に果てし国に帰り来て抱かむとせし時になかりき
                 六月十三日
山陰の海見ゆる処に石を置き葬りしままに行かぬ父なりき
面影は忘れしゆゑに麻古を見る汝の帽子をかむる麻古人を
甲高き麻古人の足を見るときに凍傷やけし汝の足をぞ思ふ
六月十三日ひと日こもりて折々に涙ぐむ吾を見て居るや汝は
 
ここに詠われているそれぞれの汝は亡き比呂をさしているだろう。「歌集を刊行しない」と言い続けた落合京太郎の七二五七首のうち
の比呂を悼む慟哭の一連はやはり活字に起してくれてありがたかった。憶良の「古日に恋ふる歌」を超え、更に法曹の士が意外に仏教
的なものへの傾斜を見るのも亡き比呂へ、及び南方に散った者達へのおもいがこめられ、それは終生尾をひいていたのではなかったか。
 
口結び御顔小さく臥したまふ僧の如くになりたまひけり
二月二十五日(昭和二十三年)
正法眼蔵(しゃうばうげんぞう)第三十五の栢樹子(びゃくじゅし)栢(しん)槙(ぱく)に比定す老(おい)妄語(たはごと)
(平成二年)
 

 10   伊藤左千夫
更新日時:
H17年10月24日(月)
 
伊藤左千夫再考   間瀬 敬
 
 
 左千夫は決して子規の唱道した「写生」の忠実な実行者でも伝道者でもなかった。雑誌『馬酔木』の「終刊之消息」に寄せた左千夫の文(明治四十一年一月)は、子規の作歌態度に対する訣別宣言とも言えるもので、左千夫の並々ならぬ自負と覚悟を感じる。
 「子規子の研究的態度は文学は只文学を目的とし、歌は只歌を目的と為せしと云へる見地に立たるものと見るべく、従て其作物の跡に就て見るも、自然を親み人生を傍観せるの趣きあり、歌と他一切の文学美術との関係若くは宗教問題社会問題人生問題等の諸問題と文学との関係に就ては、殆ど意を注ぐ所なかりしなり、言ひ換ふれば歌の問題は単に歌なるものの範囲内に於てのみ解決を求めたるものなり。」
 「文学美術上一切の問題が、人間の研究を根本とせる如く、歌に於ても勿論寧ろ人間其物に最も直接なるべきを論じ、作歌理想は子
規子時代と頗る其中心を異にし、明確に其然るべき理由を自覚せり、故に其態度は自ら人生を親み自然を傍観するに至れり」
 「自ら人生を親み自然を傍観する」というその意味を具体的に考えてみたいのである。アララギ明治四十五年十一月号に、茂吉は「郊外の半日」と題する十八首を発表した。
  今しがた赤くなりて女中を叱りしが郊外
  に来て寒気をおぼゆ
  秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの薄のな
  かに曼珠沙華赤し
  一面の唐辛子畑に秋のかぜ天より吹きて
  鴉おりたつ
  トロッコを押す一人の囚人はくちびる赤
  し我をば見たり
  女(め)のわらは入日のなかに両手もて
  籠に盛る茄子のか黒きひかり
 ここにその中から五首挙げてみたのだが、左千夫はアララギ大正二年一月号にこの一連を取り上げて次のように批評している。
 「此歌が客観的過ぎるからいけないといふのでは無い。歌の中に含まれて居る事件材料、其ものに欠点又は不足を感ずるといふのでは無い。ただ作者の目の作用が多く目立つて居て、その目から受けた興味を深く心に染み入れて其を味つてから、その味はつた感情が声調の上に現れてゐない。であるから、換言すると作者はこの詠んだ事件材料に対して其程興味を以て詠んだのではないだらうと云ふ感じがする。それで、此歌が充実の足らない概念的な感じが多い。然らば斯ういふ事件材料をどう取り扱つたらよいかといふに、今少し作者が自分の抱いて居る主観といふものと此事件材料との交渉をさせる工夫がなければなるまいと思ふ。『郊外の半日』の様な遣り方は厭味に陥つたり卑俗に陥つたりする憂の無い遣り方で、あぶなげが少ない詠み方である。だから歌を作る初期に属する人などには極て安心な態度であるが、一かどの詩人としての作物としては、も少し自分の精神の全部を傾倒してかかる所が欲しいのである。」
 「郊外の半日」は、どちらかというと子規の進めた「写生」に忠実な詠み方で、視点は客観的である。左千夫はそれを分かっていて、「あぶなげが少ない詠み方である。だから歌を作る初期に属する人などには極て安心な態度であるが、一かどの詩人の作物」としては不満であると言う。ここのところをまず注意するのだ。ともすれば「写実」といわれる歌は「あぶなげが少ない読み方」をよしとして来たところがある。つまり「歌を作る初期に属する人などに極て安心な態度」を維持するだけで満足して顧みないところがあるからだ。子規は「六たび歌よみに与ふる書」の中で、「和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり」と言い、また『病床六尺』の「理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。」と言っている。これらの言葉の呪縛は今に強く、主観はなるべく避け、客観的に詠めと言う。しかし左千夫は「も少し自分の精神の全部を傾倒して」かかれと言う。即ち主観を勧めているのである。そこに「人生を親み自然を傍観する」態度の意味があった。
  ぬば玉の夜の起居の春ごころおのづから
  おもふ梅のまかきを
  雨やみて戸におとづるる風のむた寒さは
  ゆりぬこの春の宵
  釜の煮えのおほに鳴りつつ春とおもふ心
  はみちぬ夜のいほりに
 「春来」(明治四十二年)と題するこれら一連の歌について、土屋文明は『左千夫歌集合評』で、「此頃の大きな問題は如何にして短歌を内面的なものにしようといふことであつたやうに思ふ。」と記しているが、この「内面的なもの」の指向に新しい模索があった。
  わがめづる庭の小松にこのあした初雪ふ
  れり芝の小松に     「雪中松」
  初雪の松のながめをくはしみと室を清め
  て友よびあそぶ
 文明は「春来」一連の合評の中で、同年の「御題 雪中松」の一連と比較して、「全然行き方を異にしてゐるので、左千夫歌集中、また根岸派歌風変遷の歴史中に在つても是非注意せねばならぬ作であると思ふ。」と指摘している。確かに「雪中松」の行き方は子規の「写生」から隔たっていない。客観的な視点から映ずる内容にとどまっているのである。比較して「春来」が内面的なものへ踏み込もうとしている点は一目瞭然である。
  我がおもひ深くいたらば土の底よみなる
  友に蓋(けだし)通はむ
 左千夫の「冬のくもり」(明治四十四年)一連は左千夫が自解を書いているように、堀内卓の逝去のことなどもあって、物悲しい調べになっている。この一首について、茂吉は『左千夫歌集合評』の中で「なるべく主観歌を避けて草花の歌などにばかり安住してゐれば、無難ではあるが、それはまた卑怯な態度の一面ともいふべきである。左千夫先生はさういふところは盲目的に突破するやうなところもあつてなかなか愉快である。」と述べている。この文は「郊外の半日」を批評した左千夫の考えそのものではなかろうか。
  秋草のしどろが端にものものしく生(い
  き)を栄ゆるつはぶきの花
 「ほろびの光」一連五首中の第四首。この「ほろびの光」は奇しくも茂吉の「郊外の半日」と同じ号のアララギに掲載されている。茂吉はこの一首に対し、「左千夫一流の思想・哲学をひそめた観入の為方であつて、その主観をば思想的に露骨にせぬから、おのづと象徴の域に達してゐるのであつて、これが写生の実行をつき進めて行けば、おのづから至り著く境地なのである。」と最高の賛辞を贈っている。左千夫は当時「内面と外景の融合」ということを言っていたと文明は記しているが、それは茂吉のいう「象徴の域」に通じるものである。「ほろびの光」に至る左千夫短歌の完成は、子規の「写生」からの訣別にこそ出発点があったと思うのである。
 
 
歌の世界61    大河原 惇行
 
桑子(くはこ)まだ二眠(にみん)を過ぎず村々の若葉(わかば)青葉(あをば)や人しづかなり
 
伊藤左千夫晩年の歌である。死の二ヶ月前の歌で、左千夫はこのような歌をのこして、卒然と逝ってしまった。
左千夫の意識には、死の思いなど、全く無かったのであろう。長く生きて、歌がもう一つ動くはずであったのであろう。
この歌の「二眠を過ぎず」の把握は、生活的であって、動きがある。ここが表現において、いまだ説明的であるのだが、それでも、これから何か可能性を抱かせる、そういう表現ということになるのであろう。
秋草のしどろが端(はし)にものものしく生きを栄(さか)ゆるつはぶきの花
 
「ほろびの光」一連、五首のものだが、ここに左千夫の達成を見る。そして、九ヶ月後に左千夫はその生涯を終えているのだ。
ここで、注意するのは、一つの完成した世界を構築した後、さらに左千夫は動こうとしていることだ。その動きを「二眠を過ぎず」に、指摘できると思ったのである。左千夫は死を予期していなかったので、突然の死であることも、歌が流動的であることを示しているのではないかと思うのである。
そこが、長塚節などとは、違うのである。節の晩年は死を意識して生きて、「鍼の如く」の世界を残したのである。節と左千夫との違いは、歌を作る一人として、注意してよいのではあるまいか。
そうして、左千夫が今しばらく、生きたとしたら、どんな世界を構築したのであろうか。もはや、これは想像の外のことである。が、想像をほしいままにすれば、おそらく、息の太い人間味豊かな混沌とした歌を残したに違いない。
 
 



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