十一月集 天野百合子 3首抄
狭 山 大河原 惇 行
永久の命ここに見るべく一人なりき散らむ蓮の花のくれなゐ
手のひらに重さなき一つ花弁の豊けき時は過ぎなむとする
三日保ちてここに終へゆく花なりき蓮の紅水に揺らぎて
狭 山 斎 藤 彰 詰
痺忘れ歩める望みを言ひてゐる声若くして忘れ難しも
麻痺を苦になみだ流しし日のことをいまに忘れず五年過ぎぬ
網戸ながくかげもつ部屋に座りゐて貯へのこと妻に聞きゐつ
東 京 間 瀬 敬
くだりゆく闇に月見草咲きゐたりカシオペア低く海にかたぶく
旅に来て変はらぬ心子とあふぐ天の川暗き海のはてまで
青き靄おほふ東の地平より光放射して日が今のぼる
伊 賀 城 俊 行
病ひ癒えて働らく朝の工場に音満てば安らぎの空間あり
惧れつつ作りし豆腐の艶をもつ光返さぬものの静けく
みづからを狭く生ききてふたたびの豆腐を作り我は疲れぬ
我孫子 杉 本 明 子
むしあつき空気のよどむビルの間に沈まむ日輪濁り濁りぬ
とほき水空とけぢめのなき沼に激しく雨の降りみだれくる
動くべき何にむかはむ毀すべき何を見据ゑむああ朝となる
高 知 井 上 佳 香
侵食を許して浮かぶ赤い月死んだ人でも嫌いは嫌い
晩夏の空に相寄る星と月地上の土は冷え広がりて
滓こそがきらやかに見ゆ生あってこその歌とは思うけれども
東 京 小 川 優 子
吾が吐きし言の葉ゆゑの不確かさこはいものにはこはいと言はず
みづどりの盛んに交す歓びか望まれて待つ炎天の二時
あやまちをつくるよろこび今宵また河面霧らひて我を呼びつつ
岡 山 浜 崎 達 美
曇り暑きわが誕生日の夜更けて福田総理の辞任を聞け
川岸の柳白々と靡きゐて差せるひかりのやはらぎて来ぬ
刻む音物を煮るかをりなき世界に生きゐてときにわれは寂し
アベリアの咲けば思ひぬ訪ねくれ相次ぎ逝きし二人の友を
十分の散歩に何を捉へむか今朝は未生の韮の花など
焦りつつ怠りにつつ暑き夏過ぎて今年も歳を重ねぬ
東村山 大 の トクヱ
嗚呼無量われのひそかな決意にて決意するとも忽ちゆらぐ
パソコンに農作業十二ヶ月の表人は来年の辛菜(からしな)までを
どんよりと曇りてあけし今朝の空六十三年経ちし八月
所 沢 出 井 美喜子
時きざむ音たかくして皿の上に解凍はじむる肉のかたまり
湿度計示すは憂ひかこの部屋のブロンズ像の傍へにありて
遥かより母が吾の名呼ぶやうなさみしき地震が夜半にすぎゆく
飯 田 佐々木 桂 子
昇り来し月の光の明かるかりき水飲む猫の丸き背に照る
少しあれし唇にわが紅ひきて逢ふべき人に今朝は逢ひたり
闇に問ひ返らぬ応へを思ふなり問ひ続くるもわが生として
香 美 佐 竹 玲 子
葛の葉の茂る堤に共に見き烏が森にただこだはりて
政策に取り替へられし田を歎く人の言葉をあはあはと聞く
何となく久しく会はず過ぎてきぬ声はかの時かの日のままに
千 葉 今 関 久 義
病む者を叱りてさびし幾十たび重ねて果てむ共々の老い
「べし」「べかり」何れと迷ひ夜をこめてかにかく起きて朝餉に向かふ
潮けむる海境くらしゆく船の影見ずひびくエンジンの音
調 布 奥 山 善 昭
わが生きる一瞬に連なる雲の流れ沈み暮れゆく色失ひて
屋根に影おく竹の林の上にして雲は東に移りつつあり
暮れてゆくガラス戸の外狭き道の鋪装工事もいつかやみたり
さいたま 古 賀 多三郎
両側のコンクリート塀に挟まるる息づまるまでの路地のこの道
剣銃もて民衆の避難拒みたる関東大震災二重橋前
秋深むといへる言葉のなつかしさ遠きかの日の指の冷たさ
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