テープ版


 1   2008年11月号テープ版・目次
H20年12月23日(火)
短歌21世紀テープ版  2008年11月号
 
A面  内容
  
     1  作品 T   
     2  十一月集 
3  作品 2  (・大河原 他 選)     
     4  ウイング21
     5  テープ版の連絡ときまり
 
B面  内容
 
1  雑誌目次 
     2  「短歌21世紀の一首」           ・山本 富貴  ・熱田 君江
     3  作品評      九月集を読む     ・大松 達知  (コスモス)
     4  人間と短歌 歌集『豆腐屋の四季』四 ・城 俊行                      
     5  テープ版作品評( 10月の作品)    ・渡辺 和佐子                         

 2   短歌21世紀の一首    山本 富貴   熱田 君江 
H20年12月23日(火)
10月号  短歌21世紀の一首
 
              山本 富貴
 
  これの世にいまだ解らぬこと多し若者はむげに人を殺むる  (岩崎フサ子)  
 
 最近の世相を如実に詠んだ一首であり、共感を呼ぶ歌として心に残るものがあった。荒んでいる世相がそうさせるのか、世相とは言っても構成している単位は、一個人であり、一家族である。日本は平和で住みよい国であるというのは、もはや幻想的にすら思われる。こんな日本に誰がしたとて、もはや及ぶものでもなく、ただただ嘆かざるを得ない。
 それにしても短歌の題材として、多くの人は山川草木・花鳥風月あるいは老若男女・労遊学務など、いわゆる身辺雑事を取上げる傾向だ。作者も他の作品の多くは花にまつわっている。しかし、七月号でも作者は「人を殺めし人間の貌ふと映る鬼にもあらずただの若者」と詠っている。どこか特異性がある。
 人が人を殺める行為は、法的以外は許されざるものであり、荒れる若者の心情に思いを致しても、大人のなすべき生業(なりわい)としても、あまりにも老・若のかい離の溝は深すぎるーと思わざるを得ない昨今である。
 
                   熱田 君江
 
  銭を得る鍼を打つなき日々にして夜は娘にわが鍼を打つ   (大河原惇行) 
 
 衝撃を受けた。上句「銭を得る鍼を打つなき日々にして」を読んだ瞬間である。下句「夜は娘にわが鍼を打つ」と続く。
 大河原氏は「短歌21世紀」創刊時より、意識して身内に関する事は歌にしないようにしていると感じていた。まして金銭に関しては尚更である。そして平成十九年十月号で兄弟の歌を発表した時は、大河原氏も少し気持ちが楽になったのかしら、と失礼な事を勝手に思っていた。
 そしてこの歌である。大河原氏が過去に「銭」について歌った事があっただろうか。大河原氏は歌の指導、講演、原稿依頼等々忙しい毎日を過ごしの事と思う。忙しくなればなるほど鍼を打って得る収入は減っていくのかもしれない。上句は思い切った表現であり、心に響く。そして、帰宅する頃には治療の時間が終っているのかもしれない。身体の弱い娘に鍼を打っていながら、一方で自分の鍼を打つ感覚を確認しているのかもしれない。
いや、下句はもっと素直に受けとる方がよいのかもしれない。下句によって緊張から開放された感がする。

 3   11月集  3首抄  天野 百合子
H20年12月23日(火)
 十一月集 天野百合子 3首抄
 
   狭 山    大河原 惇 行  
永久の命ここに見るべく一人なりき散らむ蓮の花のくれなゐ
手のひらに重さなき一つ花弁の豊けき時は過ぎなむとする
三日保ちてここに終へゆく花なりき蓮の紅水に揺らぎて
             狭 山    斎 藤 彰 詰
痺忘れ歩める望みを言ひてゐる声若くして忘れ難しも
麻痺を苦になみだ流しし日のことをいまに忘れず五年過ぎぬ
網戸ながくかげもつ部屋に座りゐて貯へのこと妻に聞きゐつ
             東 京    間 瀬   敬
くだりゆく闇に月見草咲きゐたりカシオペア低く海にかたぶく
旅に来て変はらぬ心子とあふぐ天の川暗き海のはてまで
青き靄おほふ東の地平より光放射して日が今のぼる
             伊 賀    城   俊 行
病ひ癒えて働らく朝の工場に音満てば安らぎの空間あり
惧れつつ作りし豆腐の艶をもつ光返さぬものの静けく
みづからを狭く生ききてふたたびの豆腐を作り我は疲れぬ
             我孫子    杉 本 明 子 
むしあつき空気のよどむビルの間に沈まむ日輪濁り濁りぬ
とほき水空とけぢめのなき沼に激しく雨の降りみだれくる
動くべき何にむかはむ毀すべき何を見据ゑむああ朝となる
             高 知    井 上 佳 香 
侵食を許して浮かぶ赤い月死んだ人でも嫌いは嫌い
晩夏の空に相寄る星と月地上の土は冷え広がりて
滓こそがきらやかに見ゆ生あってこその歌とは思うけれども
             東 京    小 川 優 子
吾が吐きし言の葉ゆゑの不確かさこはいものにはこはいと言はず
みづどりの盛んに交す歓びか望まれて待つ炎天の二時
あやまちをつくるよろこび今宵また河面霧らひて我を呼びつつ
              岡 山    浜 崎 達 美
曇り暑きわが誕生日の夜更けて福田総理の辞任を聞け
川岸の柳白々と靡きゐて差せるひかりのやはらぎて来ぬ
刻む音物を煮るかをりなき世界に生きゐてときにわれは寂し
アベリアの咲けば思ひぬ訪ねくれ相次ぎ逝きし二人の友を
十分の散歩に何を捉へむか今朝は未生の韮の花など
焦りつつ怠りにつつ暑き夏過ぎて今年も歳を重ねぬ
              東村山    大 の トクヱ
嗚呼無量われのひそかな決意にて決意するとも忽ちゆらぐ
パソコンに農作業十二ヶ月の表人は来年の辛菜(からしな)までを
どんよりと曇りてあけし今朝の空六十三年経ちし八月
               所 沢    出 井 美喜子
時きざむ音たかくして皿の上に解凍はじむる肉のかたまり
湿度計示すは憂ひかこの部屋のブロンズ像の傍へにありて
遥かより母が吾の名呼ぶやうなさみしき地震が夜半にすぎゆく
               飯 田    佐々木 桂 子
 昇り来し月の光の明かるかりき水飲む猫の丸き背に照る
 少しあれし唇にわが紅ひきて逢ふべき人に今朝は逢ひたり
 闇に問ひ返らぬ応へを思ふなり問ひ続くるもわが生として
               香 美    佐 竹 玲 子 
 葛の葉の茂る堤に共に見き烏が森にただこだはりて
 政策に取り替へられし田を歎く人の言葉をあはあはと聞く
 何となく久しく会はず過ぎてきぬ声はかの時かの日のままに
               千 葉    今 関 久 義 
 病む者を叱りてさびし幾十たび重ねて果てむ共々の老い
 「べし」「べかり」何れと迷ひ夜をこめてかにかく起きて朝餉に向かふ
 潮けむる海境くらしゆく船の影見ずひびくエンジンの音
               調 布    奥 山 善 昭
 わが生きる一瞬に連なる雲の流れ沈み暮れゆく色失ひて
 屋根に影おく竹の林の上にして雲は東に移りつつあり
 暮れてゆくガラス戸の外狭き道の鋪装工事もいつかやみたり
              さいたま   古 賀 多三郎
 両側のコンクリート塀に挟まるる息づまるまでの路地のこの道
 剣銃もて民衆の避難拒みたる関東大震災二重橋前
 秋深むといへる言葉のなつかしさ遠きかの日の指の冷たさ

 4   作品評  「八月集」を読む   大松 達知
H20年12月23日(火)
九月号作品評  
       
    「九月集」を読む
               大松 達知 (コスモス)
  
ひさしく病む子のため雛(ひひな)を買ひし日のこころ鮮明に一日(いちにち)ありつ  大河原惇行
 
 なにかのきっかけで当時の自分の思いつめたような気持ちを振り返っているのだろう。過ぎ去った日々の中に、自分の心が熱く燃えたことがあった。しかし、ただ懐かしむだけではない。鮮やかに思い出すのはそのときの思いの強さである。それが今を生きる上での
支えにもなっているのだ。
 
はらわたを一つの声に充たしゆく徒労のごとく我は思へど     城  俊行
 
 何をしているのだろうか。「ひとつの声」は自分の話なのか、唸り声なのか不明である。しかし、臓腑に声を充たすという見立てには、なにやら生の根源にふれるようなおもしろさがある。もしかすると、お経のようなものを読み上げているのかもしれない。目的があるからこそ徒労と感じるのだ
 
注文をすればすんなり出でてくる珈琲ゼリー食べて苛立つ     井上 佳香
 
 この文明社会においての分業制はおそるべきものである。注文すれば、すぐにはできあがるはずのないものでさえ、既製品が用意されていてすぐに運ばれてくる。そこには店員の苦労もなければ消費者が待つという我慢もない。すべてマニュアル通りにさらりとことが運んでゆく。作者はそういう流れに自らが乗ってしまい、あまつさえそれを食べて安易な満足をしてしまったことに苛立っている。コーヒーゼリーという物体がまさにその安易な感じを象徴していていい。
 
祈るもの持てる倖せの顔ひとつ朝のインターホンのカメラに写りぬ   井出美喜子
             
  新興宗教の勧誘だろう。自らの信心を布教しようと(命令を受けているとしても)、朝から見知らぬ他人の家を訪ねて歩く人。不可思議で気味悪く感じる向きもあろう。だが、作者は相手の顔に或る信念の線のようなものを見出したのだ。動機はなんであれ、実態はなんであれ、その人には信仰を持つという幸せがあるのではないか。このごちゃごちゃした時代に祈る対象を持っているのは、他人がとやかく言うことではなく、ただ幸せなことだろう。そう客観視できる作者も実は幸せなのにちがいない。
 
昂りの覚むればなべて忘れしか母はさびしき声にもの言ふ     佐々木桂子
 
 いわゆる認知症の症状だろう。「さびしき声」が一首の中心。自身では感情が昂ぶったことをはっきりと覚えていない。しかし、頭のどこかにその瞬間の余韻がうっすらと残るのであろうか。われにかえったように「さびしき声」を出すのかもしれない。自分を自分でコントロールできないさびしさ。母親自身がそれをわずかに感じていることを娘が知るのはどれほど辛いことだろう。
 
冗談じやねえぞだがしかし確かに我は衰へてゐる          古賀多三郎
 
 破調である。二句目の「ねえぞ」の後が四音欠落している。これを歌と呼べるかどうかは別として、勢いは格別にいい。定型に嵌め込むと殺がれてしまう勢いはある。では定型は何のために存在するのか。或いは、定型に言葉を嵌められないほど衰えているのだというメッセージであろうか。考えさせられた一首である。 

 5   十一月号テープ版作品評    渡辺 和佐子
H20年12月23日(火)
十一月号ープ版作品評(10月の作品
 
            渡辺和佐子
 
  おびええつつ過す日あれどいつしかにその寂しさに慣れて病みゐる 北原作英
 
病を持ち日々を過されている。とても無理はできない、己をいたわりながらいると、皆と行動もできず、生活上の制約も多々あると思う。そのいらだちや寂しさが常にあるのではないだろうか。一首の中に諦観みたいなものがかんじられ、静かである。
 
 後ろに手を組みて歩める己がかげ誰にも気がねすることもなし    高橋文博
 
そんな姿勢で歩かないで下さいと、時々家族に言われるのであろうか。今日はひとり好きなように歩いているのであろう。誰でも持つ、人間のある一面を切りとっている。
 
 玉音放送待ちしかの日も朝より手旗信号繰り返しゐき        藤原みよ子
 
八月の終戦を意識した歌が今月はおおかった。玉音放送があると、あらかじめ伝えられていても、天皇が何を話されるのか判らなかった故に、それを待つ間も手旗信号の練習を、いつもどうり行っていたのであろう。何かせつなく、今でもあの時期の重苦しさを感じ、思い出してしまう。
 
 はてしなき海岸をゆく人のなく知床の方は海霧のなか        堀 康子
 
短歌二十一世紀誌上に網走からというより、北海道からただひとり、毎月歌を出されている、この地で暮らしている方である。夏の終りなのだろうか。誰ひとりとして海岸には人がいない、旅行詠にはない下句に漂う叙情が特殊である。
 
 この空に訓練飛行せし亡きを思ふ青葉満ちたる桜の谷に       片桐文子
 
 明日香の空日々に飛びたる若き日の亡き子を憶ふ祈る心に
息子さんを亡くされたのはいつなのだろう。戦時中なのだろうか。掲出の二首とも特別歌会で訪ねた吉野と明日香での作で平和を祈るこころである。かの地への思いは一入ふかい。
 
 灯る室に夕べ出で入る燕あり巣のへりに雛の並ぶ觜しろく      小松もとみ
 
先日の吉野で行われた宿は由緒ある宿である。その正面玄関から燕が出入りするおおらかなようすは何人もの方が詠んだ。下句の「巣のへりに」の「へり」と「並ぶ」は省き觜を(はし)と読まず「巣に雛並ぶくちばし白く」としたほうが聞いていて判りやすいのではないか。
 
 11時02分テレビの前にもくとうす長崎に原爆おとされし日ぞ    奥井憲太郎
 
昭和二十年(1945)八月6日広島に八月9日長崎にげんし爆弾が落とされた。その日はわたくしたち日本人の決して忘れられない日である。評者は広島の投下時間は朝8時過ぎであったとはしっていても長崎の時間はよくおぼえていなかった。そのため、いきなり11時02分という具体的な時間を詠まれたことにあらためて衝撃をうけたのである。これはとても大事なこととあらためておもった。
 
 青葉の中に見えかくれする共産党のポスターいくつも吉野にありき  田中要
 
吉野の歌会に関わる歌の多い中でこの作品に特色があるとおもった。吉野には特別のイメージがあり先入観を持ち物を見てしまいがちであるから。
 
 傍らの箪笥に手を当て立ち上がる瞬時の思ひ生きるといふこと    小川謁夫
 
下句思いが的確に捉えられ上句の具体が生かされている。歌の材料はどこにでもあると、この作品を読んであらためて思った。
 
 日暮れとなる九十九里の浜歩みゆく抱くあくがれの今に変らず    大河原惇行
 
九十九里の浜を歩みながら抱くあくがれというのは、伊藤左千夫だろうか、柴生田稔だろうか。それはここに繋がるアララギの先進の方々のことと思う。端的な表現ながら思いはふかく、いまの作者をささえる心であろう。
 
 夕ごとに桃の値段を覗きつつ八百屋の前を自転車に過ぐ       井上佳香
 
桃が八百屋に並びはじめた、日々の値段をたしかめながら買わずに過ぎてゆく。
下句「八百屋の前を自転車に過ぐ」に気持が凝縮されて、生活感あふれる一首である。
 
 生きてゐる今この時を生きてゐる光の燦爛夜の空に見つつ      浜崎達美
 山並みに川面に轟き上がる光七色の尾を引きて落ち来る
 オレンジ色に輝く海の礁の上黒く影して鷺1羽立つ
夜の外出は殆どないのであろう。一連六首を読むとこの夜は花火見物にでかけたようである。「生きている今この時を生きている」という心からの歓びが、上句に集約されて伝わってくる。二首目も花火という言葉を使わず「轟きあがる光7色の尾を引きて」という描写で、現わしとてもいいと思った。3首目の、海の礁とは、水面に見えがくれする岩である。夕焼けがオレンジ色に輝く岩、その上に立つ鷺を「黒く影して」と捉えた。いいところを見ていて感じがある。
 
 捨てきれぬもののいくつかとりわけて惑ひまどひて告げざりし心   佐々木桂子
 
自分と関わりのあった誰かの物を整理しようと思って始めたが、なかなか捨てきれない。ましてそのことを言うことなどできない。という皆に共通する微妙なこころである。
 



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