エッセー
「キッチンの窓辺で」  (2001年6月〜2004年7月)
 
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「キッチンからの便り」 (1994年9月〜2001年1月)
 
 「さち子さんの帽子」開設に到るまでの心の軌跡、交友の歴史などを綴ったものです。


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 [6]   「さち子さんの帽子その後2」--「キッチンの窓辺で28号」掲載(2003年9月発行)
 旧友の長かった癌闘病に、晩年の数年間寄り添うことになった成り行きから、一つの帽子が生まれた。それは私にとって、最後まで家族を案じ多くの無念も胸に残しながら、傍目には、雄々しくとしか言いようのない人生を歩んだ彼女との記念碑のようなものでもある。育つものやら、育たぬものやら行く末を見極めるまで、気負わずにやれることをやってみよう、そう考えて抱えて続けてきた。
 始めは彼女の入院先、八戸市民病院の患者さん方に作っていた。否応なく眼に付くその帽子は、しばらくの間、羨望の眼差しに曝されていたらしい。「忙しくさせては申し訳ないけれど、希望者があって」と、おずおず尋ねて来られて、正直のところ私は驚いた。ほんの思いつきで気楽に作ったものを、切望する人たちが居られたということに。意を決して頼んで来られるのだと聞けば、弥が上にも張り切らざるを得ない。病んだ途端に多くのものを切り捨て、生活の質を落とすことに甘んじざるを得ない実情を知り始めていたから、彼女たちの望みに応えずして何としよう、そんな想いであった。いつか通る道かも知れない。 
 病棟から直接聞く反応を手がかりに工夫を凝らし「幸子さんの帽子」の原型が出来上がった。抗癌剤で髪の抜けてしまった頭部ーそれは、病む人たちの悲しみの象徴であり、同時に、毛髪は整容の機能以上に危険防止や保健衛生上も欠くことの出来ないものであることを、間接的に感じ取ることになった。「洗濯物を干す時直射日光に当たると、汗が滝のように顔面を流れ落ちるのよ。」失った人にしか体験できないことのあれこれを、彼女は逐一語ってくれた。
 実に、20年近くに及んだ闘病の過程は、おそらく、日本の癌治療の歴史の重要な一局面を語るものではないだろうか。看護婦であった彼女が、医療者の専門性と患者の視点の双方から記録し続けていたという闘病記録は、その片鱗を私に書き綴ってきた生活そのものをも丸ごと含んだ人生の記録となっているに違いない。いつか目にする機会もあろうと思いつつ、手元に残された手紙の束さえ、未だ解く気力を持ち合わせない。どのページを読んでも、治ろう、負けまいとひたむきに綴ってあると夫君の述懐するその記録の元へ、いつか戻そうと考えるのみで。  さて、必要を確信しつつあったとはいえ、個人のボランティアの申し出を胆沢病院が組織として受け入れ、患者さん方に仲介の労を取るシステムを整えたのは、これまた驚きであった。「開かれた病院」を標榜することからは当然の処置だったのかも知れないが、少しずつ少しずつ変わっていく医療が嬉しく、私は覚悟を新たにした。出来る限りの労力と時間を注ぎ込もうと。その後の病棟出入りの一端は、すでに記したとおりである。そしてその間に、一つの想いが醸成されていった。「外に開く」という医療者の理念は当事者の決意として非常に尊いが、「外から入る」者は厳しい節度を保持すべきである。各階の婦長さんに挨拶し、当事者への引き合わせをお願いするのみで、その他の負担はかけないことを鉄則にした出入りであったが、日常的に生命の転変あり得る現場に、本務以外のことは最小限に留めるべき、という。何よりも、ボランティアに付きまとう「行為者」と「受益者」の払拭し難い関係を、自分自身の中で克服できずにいることであった。必要な人が、数多くの中から自由に選ぶことが出来るという需給関係が、ハンディを持った人にも許されてしかるべき、そのような社会であって欲しい。何とか市販の道は拓けないものか、それがこのところの念願になっていた。
 この初夏、ようやく本腰を入れられる状況になり、まずは地元ジャスコ水沢店にアタック。というより、行きずりに思い立って帽子売り場に口頭で想いを伝えたのが、即、上部に伝わり、本社、提携メーカーへの打診を踏まえて回答があったのが一週間後。資料が欲しいというので、これまでの来歴等を含めて商品開発の企画書らしきものをまとめ、急遽見本品数種を添えて届けて一ヶ月、名古屋に所在するメーカーから連絡が入った。本社指示で試作することになり、以後、直接のやりとりを願いたいと。しばらくは命運を共にせんと、息を潜めている。
update:
2008/03/23

 [7]   「ヒバクシャ」-「キッチンの窓辺で31号」掲載(2003年12月発行)
 
 11月、北上市で上映された映画「ヒバクシャ」(監督 鎌仲ひとみ、制作 グループ現代、国際交流基金・芸術文化振興基金助成事業、財団法人日本ユニセフ協会後援)のパンフレットを読んだ。マスコミ等の断片的な事実報道では統合し難い事態の全体像が、明確に書かれている。
 第二次大戦以来、拡大の一途を辿った原爆実験、核兵器の生産と使用により、地球上のあちこちで起こった放射能汚染が、目に見えない形でじわじわと拡大し、低線量の放射能被曝による長期の影響が人体にまで及んでいるという趣旨である。
 スポットは三点。自らも広島で被曝し、以後、ヒバクシャの援護活動に挺身してこられた肥田舜太郎医師(85才)、ハンフォード核施設(米、ワシントン州、プルトニューム生産工場、1987年生産停止)の風下で農業を営みながら、一帯住民の被曝被害で政府を訴えているトム・ベイリー(58才)そして300dの劣化ウラン弾が投下された湾岸戦争(1991年) 後、子供の癌・白血病が急増したイラクである。第三点について、17日、イラク自治政府保健担当相が調査の必要性を訴えた談話が NHKラジオで報道されたが、それは主要時間帯を避けていて、翌日の新聞にも関連記事は見当たらなかった。
 患者を診る際、生い立ちや家族構成、食物の嗜好などに始まって被曝時の状況に到るというように、「患者を縦に診る」肥田医師が長く抱き続けてきた疑問は、1989年、ボードマン氏(米)との出会いで氷解する。被曝米兵の診療を通じて、特有の傾向を、彼はこう書き記すに至った。「どの症状にも当て嵌まらなかったら、--非定型性症候群--それは被曝だ」と。足下から襲ってくる悪寒、下痢、倦怠感、突然の記憶喪失などの不定愁訴に始まり、免疫関連障害・癌・白血病などに至るまで、長い年月をかけて進行する過程から、被曝との因果関係を立証することは非常に困難であることが、多くの不幸を放置し続けてきた。
 マンハッタン計画以来、2500発の核弾頭用プルトニュームを生産してきたハンフォード核施設は、40〜50年代、故意に放射性物質を大気中に放出したことは認めたが、風下一帯の住民にね前述のような健康被害が多発することの訴えは退けた(2003年) 。 そこで生産された農産物は、主に、日本に出荷されるという。
 人間が短時間に全身に放射線を浴びた時の半致死量(半数の人が死ぬ)は4シーベルト(1シーベルト=1000_シーベルト)、短時間に2シーベルト浴びると、吐き気、倦怠感、血液の異常、消化器官障害が現れ死に至る場合もあるが、250_シーベルト以下では、目に見える変化はないとされている。自然放射線は2.4_シーベルト、胸部X線6.9_シーベルト等。しかし、放射線を浴びることにより、細胞中の水やDNAにエネルギーが与えられ、分子は活発な状態になって電子が飛び出したりする。その結果の「電離分子」による複雑な化学反応が、遺伝的に不安定な状態を引き起こして、染色体異常や突然変異に至ることが明らかにされてきた。低線量(200_以下?)といえども、食物などを介して一端体内に入り込むと、半永久的に(25000年)滞留する。フランス核実験場となったアフリカ、オーストラリアのウラン鉱、インド・パキスタンの核実験、ソ連宇宙船残骸落下(トゥバ王国)、チェルノブイリ原発事故(1986年)、アフガン、イラク爆撃等により、放射能汚染は全地球に拡大しつつある。1996年、日本全国で乳癌の死亡率が急上昇したのも、偏西風によって到達したチェルノブイリの放射能の影響が、時を経て現れたものではないかと言われる。
 さて、イラク。アメリカ石油資本に対抗して、掘削・精製事業を国営化していたイラクが、国境の石油盗掘を理由にクゥエートに侵攻したのが湾岸戦争の発端であった。核燃料製造時に大量に発生する劣化ウラン(米ー73万d、仏ー29万d、日ー1万d)は、有害なゴミである反面、高性能の兵器ともなりうる。比重が鉛の1.7倍もあり、砲弾の弾芯にすると頑強な戦車をも貫通し、その際の衝撃で高熱を発して人を殺傷し、気化して超微粒子となった放射性物質は、石油精製所から排出される黒煙と相俟って生命を脅かす。戦後の経済制裁は、栄養失調、水質悪化(消毒用塩素剤禁輸)に加えて、治療手段(薬剤)のない疾病を深刻にし、日々、命を奪ってきた。
update:
2008/03/23

 [8]   「さち子さんの帽子その後」--「キッチンの窓辺で34」掲載(2004年3月発行)
暮れ間近のある日、待ちに待った帽子の試作品が届いた。名古屋に所在するジャスコの提携メーカーからである。私が提供したデザインと型紙をベースにはしているが、プロの仕事を彷彿させる細かな工夫が見られ、素材も軟らかな綿を基調としながら一定の張りも持たせる繊細な織りで、春らしい柄と相俟って華やかな印象の品3点であった。折良く、知人の身内の方がモニターして下さることになり、彼女の意見に沿って更なる改良を加えた上での本格始動を心に期して、新年を迎えたのであった。
 メーカーからも試作品についての説明があるはずであったが早々には連絡が入らず、私の方でも納得のゆく作----頭髪の無い襟足まですっぽりカヴァーして、しかも全体のバランスを崩さない形の----が定まらず模索するうちに時が過ぎた。取りあえず認めた状況報告の葉書に還ってきた反応で、事態の変転を知ることとなった。ジャスコ側担当者に異動があって企画の引き継ぎが充分ではなかったらしく、宙に浮いてしまったようだとのこと。もう一度私の方から立ち上げて欲しい、とも。ずっと抱き続けてきた危惧がここに到って現実のものになり、今一度と思わないではなかったが、ここまでも余りに多くの時を無為に過ごしたこともあり、別途を探ることにした。「弱者切り捨てのようですが・・・」という、私の口からは述べる気もない言葉で謝罪するメーカー氏を押し留め、半年前の「いい仕事させていただきます。」という誠意を思い返しながら、しばしの交友に感謝して別れたのであった。成就はしなかったけれど、その過程で窺い知った業界の事情など参考になることもあり無駄には終わらないだろう。
 さて、ご破算になれば否応なくこちらの自由裁量。予てより友人から得てあった介護用品販売会社(本社・盛岡、県内各地に出店)に折衝を試みる。資料各種添えて打診した日の翌朝には電話が入った。印象としては非常に関心が高い。開口一番「品はありますか?」
 個人の身辺で、ボランティアとしてこなす範囲であれば他に持ちかける意味はなく、より広範な需要(あるとして)に応えるための方策を模索するが故の試みなのである。また、いつまでやり続けることができるか、その展望を鑑みた上のことでもある。結構根を詰める仕事を、需要に会わせてこなし続ける体力の自信はない。だから、事業として請け負ってくれる向きあれば、私個人の利権は一切主張しないと明言して当たってきたのでもあった。一定量の品の準備があろうはずもない。
 いろいろと折衝する過程で改めて確認されたのは、事業として成立させるための採算性の問題、即ち、どれ位の需要が見込めるかということであった。品の特性故、高過ぎない限り価格はさほど問題にならないだろう。多くの当事者がそうされておいでのように、バンダナやニット帽などで何とか凌げてさほど必要とされる物ではないのか、その辺りの見極めが今一付かない。今までお作りした方々の多くは亡くなられ、その点についての確信を得る間も無いのが普通であったし、病む人にとって最大の関心事はあくまでも病状であって、一時身につける帽子は付随した問題に過ぎない。
 県内の縫製業者との連携が成れば、もしかして彼らの厳しい状況打開の一方策になり得るかもしれない、などと思索はあらぬ方へ。県の、ヴェンチャー企業支援スタッフに助力を願う手立ても準備した。しかし、その際もやはり、一定の市場調査が必須になる。何を幾ら作るか。介護用品販売会社氏とも、資料は店頭に置きましょうと好意的な処置で終息。
 手を染めて五年余、これ位やったら幸子さん、納得してくれるだろうか? 自分は? 否である。駄目となると尚更。結局、振り出しに戻って人頼みを辞める以外はないことを知るのである。即ち、胸中で燻っていた最後の手、ホームページを立ち上げ世に問うこと。勿論、及ぶ範囲内で。この一月、かなりのハイペースで試作品を考案してきた。その数十五、六種。慣れぬ機械操作も切迫度を増して、今少しのスタートである。
update:
2008/03/23

 [9]   「HP『さち子さんの帽子』」--「キッチンの窓辺で36」掲載(2004年5月発行)
 長い長い癌闘病の末に旅立った旧友の、弔い合戦のようにも思って続けてきた営みは、紆余曲折を経て結局このような形になった。種々の事情を勘案して辿った道筋であったが、やはり、人頼みには制約の多いことを再認識してのことである。自分でやるしかないか・・・。今までも幾度かあったそのような決断を今再びするに当たって、今回は全く私個人の裁量内に納まることであるから、無理が生じた時点で止めることも可能、という気楽さはあった。
「店開き」に際して、相応の品揃えをするために一月ほどの間に十余種の型を考案した。品質の基本原則はどの型にも要求される。襟足やもみあげ等の生え際を覆う深めの形であること、無毛であることを補うボリュウム感があること。そして生理上の要件----汗や汚れを吸収し、従って洗濯にもよく耐えること、よく頭部に添ってきつからずしかも簡単には外れないこと、最後に、装いの楽しみからは多少とも遠ざかる病床にある場合など、ささやかなオアシスともなれるようなもの・・・。品に込めるものは決して少なからず。五年の間、その事に専念した訳ではないが、使って下さった方々の数少ない反応(限られた接触で)の一つ一つを反芻しながら形にしていった。 一つ物になると、心は次へと向かう。思ったような形になるまで製図・縫製を繰り返す。その日のうちに成就しない時など、眠りの中で考えていることもあった。実用品としてはどうかと思うような趣味的な物まで入れて、それなりのヴァリエーションを整え、手近にあった、弟(彫刻家・小笠原健二)の手になるユル・ブリンナーにご登場願う。目元のきつさが気になってストッキングを被せてみたりした。それぞれを写真に納め、ホームページ作成用のソフトに従って原稿を認める。写真をふんだんに取り込み、残るはメール送受信機能の回復のみとなった。
 古い型のパソコンを騙し騙し使っていたのが、次第に仕事内容に見合わなくなり思い切って更新していたのだが、その時点でもメール交信をする気は毛頭なく放置してきた。気づいたら何らかの理由で(機種に固有のウィルス対策による障害と、後に判明)交信不能になっていた。NTT、プロバイダー(交信仲介業者)、機種製造元と、ガイドに従ってあちらこちら問い合わせても一向に埒が明かず、結局出張サービスを願うことになった。明確な目的がなければとうに投げ出したであろう。それだけのエネルギーと時間を費やしていた。機械なぞに振り回されたくはないが、と言って負けたくもない一心で。その過程で最も腹立たしかったのは、手引きするはずのガイドが、カタカナ語の羅列で、普通の日本人に理解されることを目指しているとは思われないことだ。用語も解説主体により異なっていた。全くの別世界である。
そうこうしながらも準備整い、インターネットに登録・接続された瞬間は、達成感と脱力感が綯い交ぜになり、幸子さんに始まる一連のことがドッと押し寄せてきた。終わりではなく始まりであるべきこの時、ここまでしぶとく続けてきた自分が、滑稽なような愛しいような不思議な感慨があった。
 ようやく最近になってポツリポツリと注文が入るようになった。一ヶ月余、各地の大学病院や癌患者会、ホスピスなどにアクセスして案内を入れてきたのだが、多くは”営利行為”排除を謳っていて、思うように意図が伝わらない。無明の時。「何でもどうぞ書き込んで」という幾つかの大らかな、あるいはしっかりと当方の意図を汲んでくれたグループが突破口となった。ハタと気づいたのは、結局、個人の意を切実に解するのは個人だということである。患者ご本人が運営するホームを探し、気遣いながら案内すると、アクセス件数がグッと増えた。そうして何人かの方からリンク(提携?)の申し出があり、「患者のための商品はまだまだ少ない。よくぞ・・・頑張って。」というような返信が入った時は、喜びが込み上げた。単なるお節介に終わらずに済みそうだ、と。それにつけても、肝心なのは品の質である。本当に受け容れられるや否や?未だ道は続いて・・・・
update:
2008/03/23

 [10]   「電信往来」--------------- 「キッチンの窓辺で37号掲載」 (2004年6月発行)
ホームページを立ち上げて二ヶ月 弱、目立った反応はなかった。そろそろ寝ようかというある夜、電話のベルが鳴り、取り上げた夫が首を捻って受話器を置く。それが二度三度続いた。時折ある悪戯かとそのまま床についた翌朝、「さち子さんの帽子」の最初の注文ファックスに気づいた。
 初の注文は千葉県柏市に住む方からで、さては原田様の入院先、国立がんセンターの患者さんか彼女のお知り合いかと思ったが、違った。ホームページを覧てとのこと。今も、注文者の多くがそうであるように、「試してみたい」とおっしゃる。写真の印象とコメント、そして表示価格などを総合しても、現物を手に取る訳にいかないのであるから、それが正直なお気持ちなのであろう。しばし考え、決めた方式はこうである。注文数の倍位の品を送ってその中から選んで戴き、不要な物を返送してもらう。その際の往復の送料はこちら持ち。幸い、重くも嵩張る物でもなくA4の封筒に何とか納まる。
 暑さに向かう折りでもあり、素材の厚さや型、帽子の深さなどをいろいろに揃えて六点送ると「全点買い上げ」と仰るのには驚いた。有り難いことなれど違いを吟味の上で、とご忠信申し上げると初めて納得され、幾つか返して来られた。その時点で、私自身がこの方式に納得。私の選択段階ですでにあちらの選択範囲は限定されるのであるが、それはネット販売の特質として受容戴く外ない。せめてもの配慮である。顧客本位を謳いながら営利を目指すのであれば、大きな要克服事項であるが、今は、何よりも状況把握が主眼である。
「バリバリと仕事をした」人が、図らずも身に負うてしまった境遇を、「最後まで素敵にしていたい」とおっしゃる心情が推し量られて、胸が突かれる。「これで、(目深に被れば)入院先で人の顔を見ずに済む」というのも、偽りない心境に違いない。自分自身、この境遇にあったら、どうであろうか?そのような人々に、少しなりと寄り添うことが出来ればと続けてきたことではあったが、今尚、応えることの出来ない命題である。
 注文者の三割程もあろうか?母君にと娘さんや嫁さんからのものが結構ある。それは、帽子への求めということに留まらず、これから立ち向かっていかなければならない事態に圧倒され、本人や家族が陥ってしまった重い空気をどこかで払拭したいという意思が感じられる。台風接近中の鹿児島の方に、水害に見舞われたさち子さんのことなど思い出して書き添えたからであろうか、品到着の通知に「今日から母は初めての抗癌剤です。母は勿論私も不安ばかりでしたが、今日届いて安心して挑める自信がつきました。(略)力になって頂いて感謝の気持ちで一杯です。どうぞこれからも頑張って下さい。」とあった。こんなことでほんの少しの力でも喚起できるのであれば、数値には換算できない報いを感じる。それだけ告知直後の衝撃は強く、その後に続く孤独は深いということであろうか?
命の不安に加えて、世間の偏見(?)に苦しむ場合があることを知ったのも、ネット上である。考えてもみないことであった。東京近郊の市民オーケストラで指揮者(時に、トラック運転手・・・)をされる方が、電車内で小耳に挟んだ行きずりの会話を紹介しておられた。「病気を売り物にするかのように・・・」という。当事者なら、傷ついて当然である。いいではありませんか?売り物にしようがどうしようが、それが本人の処し方なら!会話の主の意識から決定的に抜け落ちているのは、人皆死すべき者という認識である。感じ方は人様々であるが、個別的例外的の域を超えて、生き死にを含めた生存の様々な在り様を排除した思考が多数を占める社会の危険性は、すでに、多くの歴史の局面で歴然であった。現に今も様々に露呈している。
「買う側には写真が決め手です。」と私のページ掲載方法について、詳細な感想とアドバイスを寄せ、助力を申し出て下さる方があった。願ってもないこと、素直に力を借りることにした。彼女も当事者であられる。育てられながら、一歩一歩、手探り進行中。
update:
2008/03/23





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