平和公園は大切な自然と歴史があります

探鳥会で毎回配布したものをベースに紹介します。
   平和公園について
 平和公園は、昭和22年に戦災復興土地区画整理事業の一環として整備が始まる。
 事業の中心は名古屋市内に点在する279寺の墓地約18f/189,030基を東部丘陵約147fの土地に移転し、平和公園と呼ぶ墓園計画であった。昭和56年9月に墓碑移転は完了し事業の完了した。
 探鳥会や自然観察会の行われている南部地区約50fは昭和48年に都市計画墓園事業の認可を受け、既存の緑をいかし、自然林・野鳥等の保護をはかり市民が気軽に親しめる整備された公園として計画が進められている。しかし、現在は名古屋市による「なごや東山の森づくり構想」計画が始まり、新しい動きがあります。(参考文献/平和公園会館パンフより) 
 
更新日時:
   平和公園周辺に亜炭が掘られていた
 平和公園内の地層の代表的なものに、表土の八事層(川の時代の層/レキ)とその下層の矢田川累層(湖の時代の層)があり、その矢田川累層のシルト層・レキ層・砂層の下に亜炭の層が薄く層をなしている。
 戦前までは燃料として盛んに掘り出されていた。その下の層に陶恵器の材料の粘土層がある。
 今まであげた各層は非常にもろい地層で、崩れやすく、雨にも弱い。
 戦前までは、この周辺が原野であったのもうなずける。
(参考文献/都市近郊の自然をたずねて−名古屋周辺−/愛知県農地林務部自然保護課/昭和61年3月刊)
 
更新日時:
   亜炭の続き
明治30年頃から平和公園周辺で亜炭が採掘されるようになり、当時の『高針音頭』に「世帯を持つなら高針にござれドウジャ、土の下までヤーレサーノ金が出る」とも歌われました。その当時は亜炭のことを「岩木」といい、石炭と木のあいのこで、その火力は石炭よりも弱く、臭いが強いが火持ちがよいことで重宝された。
 この亜炭の炭坑は、長久手から高針が主流で、昭和30年頃まで猪高村(当時の名称)だけでも6つあり、高針の人口の約3割の人が炭坑関係者であったという。
 その後昭和34年頃から石油が登場し、急速にその姿が消えてしまった。後にこの炭坑が安普請であったので陥没事故が絶えなかった。
(参考文献/猪高村物語−名東区の今昔−/小林元著/1988年12月15日刊)
更新日時:
   奥村池を知っていますか
現在、通称市民の森の湿地はその昔「奥村池」と呼ばれていました。
東山動物園のコアラのために植えられたユーカリの森の一部に上池があり、この上池と奥村池の間に水田が開かれていた。池の脇には農家があったと明治21」年の地籍図には記述が残っている。その家は大正時代には空き家になり、銀行の所有になったり、入植者へと移り、なんとそこへ電気が通ったのは昭和27年になってからでした。
しかし、平和公園構想で、名古屋市が坪400円で買収することになり、立ち退きまた無人の土地となりました。
更新日時:
   御殿山て知っていますか
 現在の菊里高校から東山タワーの辺りが「御殿山」と呼ばれていた。
 1955年の地図には、その地名が残っている。
 江戸時代にはこの周囲の山を末盛山とか植田山とか言われたいたことが狩りの記録にあり、その山を「藩有林」もしくは「御林/おはやし」とも呼び、一般の農民そのほかは立ち入りが固く禁じられていた。しかし狩りの際には周辺の農民が駆り出され、その数4千6百人も勢子として現在の猫が洞池辺りからワッと鹿などを追い詰め、臨席した藩主などを喜ばせたと記録にあります。その藩主が陣取る席を配置したところを「御殿山」と呼びました。
 この山を管理していた家臣の何人かが、功績大なりとして譲り受け、現在この山を所有していたり、寄贈されたり、町名に残されたりしています。
更新日時:

PAST INDEX FUTURE

ホーム プロフィール 探鳥会の記録 旅行企画イベントニュース 平和公園歴史散策 自然関係HPリンク集


Last updated: 2006/11/26