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東本願寺の報恩講に合わせて京都へ一人ぶらり旅
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西に旅行するとき、うつくしい富士山が見えると、良い旅になりそうだと思うのは私だけではないだろう。 遠くからの富士はさすが美しい。
富士山
その美しさから、世界自然遺産に登録しようという動きがある。しかし、観光客や登山家の出すゴミ、悪質な業者による不法投棄などが大変多く、遠くから見たイメージとは裏腹の一面がある。そのため世界自然遺産登録の夢はまだ実現されていない。世界のアルピニスト(登山家)の間ではエベレストをマウントフジ(富士山)のようにするな、という言葉が言われるほどである。このため、自然環境に対する基準が緩い世界文化遺産の形で登録しようという動きも出ている
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鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。
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通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」と称し、二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋上には鳳凰が飾られている。
この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と名付けられた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。
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鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。この事件は三島由紀夫の小説「金閣寺」、水上勉の小説「五番町夕霧楼」、「金閣炎上」の題材にもなっている。
現存する金閣は1955年(昭和30年)に旧状どおり再建されたものである。
なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。
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慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にあり、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院。通称銀閣寺(ぎんかくじ)、山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。(夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。)
足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することから、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。
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室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。
当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。
戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。
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銀閣(国宝)−銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、義政の祖父・3代将軍義満が建てた金閣と対比されて用いられる通称である。1489年(延徳元年)に上棟されたことがわかっており、同年をさほど隔てない頃に完成したと思われる。重層、宝形造、柿(こけら)葺で、平面は長方形で正面8.2m、奥行7.0m。初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間(柱間の数が正面・側面とも3つ)の禅宗様(唐様)の仏堂である。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。鹿苑寺金閣が文字どおり金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はない。これについては「当初は名前のとおり銀を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説と義政の隠居所として設計された観音殿には、元々銀箔を張る計画はなく、当初から木肌を露出させた現在の姿が義政の構想だった、という説がある。慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が茶道趣味と禅宗文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高いと思われる。ちなみに、義政の妻日野富子はびた一文として出さなかったという話がある。
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清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。
清水寺は、金閣寺(鹿苑寺)、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。
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起源と歴史
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年(778年)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758‐811)は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年(798年)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。
以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年(780年)でなく延暦17年(798年)とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。
延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。
清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。
清水寺は、京都では珍しい法相宗(南都六宗の1つ)寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。
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