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05年秋 京都の旅

東本願寺の報恩講に合わせて京都へ一人ぶらり旅

絵葉書的写真ばっかりでつまんない
説明文は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 

報恩講
報恩講
親鸞聖人の法要 報恩講は浄土真宗門徒にとって、一年中でもっとも大切な行事です。
 
 聖人は弘長2年(1262年)11月28日、90歳の生涯をとじられました。そして聖人ののこされた徳をしのんで、毎月28日に門徒たちによって、お念仏の集まりが行われるようになりました。これがさらに大きく広がって、本願寺第三世の覚如上人によって法会(ほうえ)の基本となる形ができあがりました。
 
 そしてこの法会の集まりを「講」というようになり、聖人のご恩に報い、お念仏を一層ありがたく味あわせていただこうということから「報恩講」と呼ばれるようになったのです。
東本願寺では11月21日〜28日までの8日間、
西本願寺では新暦日程の1月9日〜16日までつとめられます。
 
西本願寺
西本願寺
西本願寺(にしほんがんじ)とは、京都市下京区にある浄土真宗の寺院。浄土真宗本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。
 
西本願寺
西本願寺
宗祖親鸞聖人入滅後、末娘の覚信尼が文永9(1272)年に現在の東山区林下町(知恩院三門北の崇泰院あたり)に廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、三代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後、各地に寺基を移転、天正19年(1591年)豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、天満にあった寺基より現在の本願寺の寺基である京都市下京区堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。
 
本願寺の教如が、徳川家康によって本願寺の東に寺領を与えられ、1602年に本願寺が二つに分かれた際、十二代教如となり開いた寺を東本願寺と呼んだため、それまでの本願寺は「西本願寺」と通称されるようになった。
 
幕末期には京都を守る新撰組の本拠地ともなったが、現在まで400年以上に渡り移転することはなかった。
 
西本願寺
西本願寺
西本願寺
西本願寺
東西本願寺
石山戦争の終結をめぐり顕如と長男教如の意見が対立。顕如が入寂すると、教如が継職。さらに譲状によって、教如は隠退し、准如が本願寺第12代を継職。
慶長7年(1602年) 家康は教如に京都本願寺の東へ寺地を寄進。
 
翌年、教如は家康より寄進された寺地へ、常陸(茨城県)妙安寺から宗祖の木像を迎え、御堂を建立して安置。
こうして東本願寺は別立する。すると教如のもとに加わるものも多くなり、やがて門徒は集合離散し、本願寺教団は東西にほぼ半分に分割される。その後は400年以上に渡り現在の地で法灯を掲げている。

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