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富無騒家が旅に出ました
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河野守弘は寛政5年(1793)長沼村大道泉に生まれ、初名為蔵のち通弘・守弘、通称伊右衛門。父親は石崎音五郎通興。母親は川又吉衛右門正順の娘喜多といいます。石崎家は貧しく守弘は村の塾で読み書きを習った程度でした。 守弘22歳の時、結婚して妻の実家に招かれたとき、妻の父親の学識の深さに驚き、自分の無学を恥じ、その夜家を抜け出して江戸に向かい浅草庵に入門し8年間国学や和歌をまなび、故郷に帰りました。故郷に帰って下野の国に詳細な地誌が無いことを憂いで37歳の時に下野の国誌を編さんしようと決意し、その後20年間、下野各地の風土記や書物を読み、実地確認をし、関係するあらゆる文献を調査研究をして『下野国誌』 全12巻を書き上げました。
しかし守弘には本を出版するだけの財力がなく、真岡の呉服問屋 岡部久四郎より多額の資金提供を受け出版にこぎ着けました。 本の挿絵は守弘と交友の合った田崎早雲が書き 寛永3年(1850)守弘58歳のときに出版されました。
守弘の晩年も貧乏が続くうえ、甥の河野顕三が坂下門外の変に関係したため、真岡の借家にも居られず大道泉の生家に隠れ住むように暮らし、文久3年(1863)71歳の生涯を終えました。 守弘の墓は大道泉橋の手前北側にある、阿夫利神社の境内に建立されています。
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弥生時代の後半の住居跡、古墳時代前期の方形周溝墓群、古墳時代後期の住居4件跡 今は史跡公園として残されています。 高勢町
方形周溝墓群とは弥生時代後期に盛んに作られたもので、土塁の周りに方形の溝をめぐらした村の族長の墓です。この形式は東日本では古墳時代後期まで続き、このように奇麗な形で残されているのは数少ない。
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全長77mの 前方後円墳で規模 平面主軸 東西73.0m 前方部 高さ4.5m 幅36.0m 中央部 高さ4m 幅30.0m 後円部 高さ6m 幅45.0m 周囲 218m
後円部に、雷神社・観音堂をまつる。規模・形状の美しさとともに芳賀地方随一とされる。
5世紀後半から6世紀初めごろの築造されたもの。 栃木県指定史跡(昭和29年) 真岡市八木岡 個人所有
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中村大塚古墳
本古墳は、南流する鬼怒川の左岸に発達した河岸段丘の西側縁辺部に立地している。墳丘の南半部が変形しており、円墳とすれば、直径約25メートルの中規模なものである。
真岡市史編纂事業によって埋葬施設の調査が行われ、その詳細があきらかとなっている。埋葬施設は、河原石小口積みによる両袖形の横穴式石室で、奥壁、天井、玄門に緑色凝灰岩の切石が使用されている。
石室は現存長 8.06メートル、玄室は長さ4.2メートル。奥壁付近の幅1.4メートル、玄門部内幅は袖石内面で0.68メートル、羨道部は長さ3.9メートル幅0.5〜0.7メートルである。 石室調査の際に、鉄ぞく、小札(こざね)飾金具、土師器杯、須恵器大甕片が出土しており、古墳の造られた年代は6世紀末〜7世紀初めと考えられる。
古墳掲示板 写
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ひかり幼稚園が併設されており、長男、次男がお世話になりました。 子供たちが食事前『今幸いに、仏様と人びとのご恩によって、おいしい食事がいただけます。ありがとうございます。いただきます』と毎日手を合わせていました。 ちなみに 食事後は『食事が終わって心豊かになりました。ありがとうございます。ごちそうさまでした』だったと思う。 20年も前のことです。
荘厳寺についてはお寺のホームページ見てください。 このページの下の ご本尊様クイックで『荘厳寺』へ
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鐘楼門
鐘楼門は、康平五年(1062)源頼義の営造に係る古楼です。
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不動尊堂
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山王神社(真岡市有形文化財)
慈覚大師草建にして、康平年間に再建し、寛永年間に現在の神社となりました。
お寺の境内に神社があるのも珍しい
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光明寺節婦の墓
芳賀郡の少領(郡司の次官)下野公豊継の妻で節婦としわれている吉弥候部道足女(きみこべのみちたりめ)の墓である。
「類聚国史」によれば(「日本後記」弘仁14年の記事であった)、平安時代の弘仁14年(823)3月19日に夫が病気で亡くなると、節婦は深く悲しみ、夫の墓のそばに小屋を建て、朝から晩まで「光明真言」を唱えて、夫の成仏を祈ったそうである。この亡き夫を思う妻の話が、嵯峨天皇にまで伝わり、「少初位上」の位を授けられ、田租を免ぜられ、節婦の家の前には標識が付けられたそうである。この後も節婦は、悲しみの涙を流し続けて一生を終わった。里人は節婦の死を哀れんで、手厚く葬った。ところが、節婦が死んだ後も節婦の悲しみの鳴き声はとはどき里人に聞こえた。それがすりうすをする音に似ていたので、この塔を「臼卵塔」とよぶようになったそうである。 掲示板 写
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稲荷神社本殿 真岡市柳林155
本稲荷神社本殿は、一間社流造りで、屋根木端葺き、江戸時代中期の神社建築仕法を知る上で貴重な建物です。
また、原型のまま保存されているのは、覆堂が完全なためと思われます。
間口118cm、奥行112cmであり、享保20年(1735)卯年建立で、文政3年(1820)辰年に上屋、拝殿が建築され、昭和62年2月に、上屋、拝殿が改築された。
祭神は稲倉魂命であり、祭日は陰暦2月初午です。
また、船玉神社が本殿の後方にあり、毎年11月23日が祭日となっています。これは船玉様と呼ばれており、船宿があったころ船の安全を願っていたものです。
稲倉魂命は、日本書紀によると、食物を主宰する神であり、伊幣諸、伊幣冊二尊の御子です。古事記によると、スサノウ尊の御子とも伝えられてします。 掲示板 写
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