よか・BY・映画 「映画の流れ」」
ここ何ヶ月かアメリカ映画とアジア映画を観た。そして、どうしてこんなにアメリカ映画とアジア映画が違うのだろうかと考えてしまったのです。アメリカ映画はこんな映画でした。
「サイコ」精神異常者が人を殺す話。「デイープ・ブルー」巨大鮫が人間を喰い殺す映画。その前は、エイリアンが地球にやってきて人間を襲う映画。彗星が地球に衝突する映画もありましたね。また銃で撃ちまくる映画も多い。私は、基本的にアクション映画大好き人間なもので、アメリカ映画となると、やっぱしアクション映画だけを見に行く傾向にある、まーあアメリカ映画を偏ってみているのだが。恋愛映画とか、渋いアメリカ映画映画はどちらかというと見に行かない。そういう偏ってアメリカ映画を観ていると、アジア映画との内容の差に唖然とするようになったのです。
最近観たアジア映画は「運動靴と金魚」「スパイシー・ラブスープ」過去に観たアジアの映画からも全般的に、アジアの映画の描く世界は、親子や老人と孫、若い恋愛映画、村の出来事など、いわゆる人のふれあいのような小さな世界の映画が多い。映画技術がまだ未熟とか特撮技術がないとか予算がないとか、いろいろアメリカ映画と違う事情はあるのだろうが、精神異常者もエイリアンも出てこず、銃での撃ち合い、爆弾でぶっ飛ばすという描写も皆無、アメリカ映画得意のセックスもほとんどない。それでいて映画になっているし、人の心を十分に捉えてくる。
アメリカ映画が世界を牛耳り、各国で映画が製作出来なくなることが世界的な問題になりつつある。確かに、言葉が理解できなくても結構面白いということ、わかると言うことで世界を制覇できたのだろう。アメリカ映画の作り方が一番良い映画の作り方だと、思うことが一番怖いとは、良識ある日本の映画人も言っている。特に映画は、各国の文化と密接に結びついているから、いろんな表現方法や描く世界があっていて良いはずである。
いろんな文化を認めあうこと。現在の世界の現状を見ると、どうしても人類の進歩を扇動してきたヨーロッパのアングロサクソンの文化に染まっているというか、占領されている、もっとどぎつく言えば、支配されている、と私は見る。いろんな美意識や価値観や習慣、風習もなんとなく西洋の物まねが日本にも、日本人にも浸透してきている。
たとえば美男美女の基準は、やっぱし白人のように背が高くて彫りが深くて、色が白くて、なんてのはどうなんでしょう。家の作り方も今日完全に西洋化しました。確かに合理性や便利さを取り入れると仕方ない面もあったのかもしれないが。
昔の日本映画も、今のアジア映画のようなストーリーがほとんどだった。たわいない家族の話。ちいさな近所の話。会社の出来事。そんなので映画になっていたような気がする。
今後、巨大資本を使って派手に映画を作るだけでなく、なんかアメリカ映画と違う基軸で、違う手法で映画をアジア映画は目指して欲しい。
セックスや殺しあいやエイリアンとの戦いというような世界とは異なるアジアの民族の視点で今後も映画が作られていくことを望みたい。
特撮と破壊のアメリカ映画は、いつかは限界がくるような気がするのだが…。
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