夏目漱石

20代一番読んだ作家が夏目漱石だった。全集とまではいかないが彼の著作はかなり目を通した。「それから」「道」は何度も読んだ気がする。
「坊っちゃん」「我が輩は猫である」「こころ」などはかなり有名であるが−−彼を理解するには、作品系列を読破すると、奥の深さが見えてくる−−−。
 
13    こころ
愛読書というか、印象に残る本というアンケートでいつも第一位になる本ですばい。漱石が「小学生でよんでためににならいという」本ですね。その本の広告文を漱石はこう書いている。「自己の心を捕らえんと欲する人に、人間の心を捕らえたるこの作物を奨む」どういう意味なんでしょうね。
 
この小説のテーマは、裏切ると云うこと、それに苦しむと云うこと。裏切るというその心境も今ならわかることだが−−、自分も信用できないと云う苦悩。暗い話です。小学生が読んでもわからん−−いや今の子供ならわかるかもね。
 
人間の心を捕らえた作物、とは、その人間の心は−−
更新日時:
2001/04/23
14    漱石の家
漱石が作品を生みだした家は、現在愛知県犬山市の明治村にあります。平屋の少し広いかなという感じの和室の家です。この家は一時森鴎外も借りていたという、因縁のある家なのです。大学4年の夏休みに友人と旅行に行った時、漱石の家を見たさに明治村まで出かけました。
 社会人になって熊本に出張に行った。熊本の厚生年金会館に泊まったら、近くに漱石の家とかなんとかいう看板があったので、ついでに寄ってみる。漱石が熊本にいたとき住んでいたという、ちょっとせまい感じの家でした。子供を亡くしたかなんかの俳句の碑があったような気がする。
更新日時:
2001/04/19
15    西日本新聞コラム「春秋」から
花便りがしきりにというのに、わが家ではやっとボケが咲いた。夏目漱石はそんな愚直なボケを愛した。半藤一利さんの近著「漱石俳句を楽しむ」にその話がでている▼「木瓜(ボケ)咲くや漱石拙を守るべく」。拙を守る、とは漱石か゛もっとも好んだ言葉であり、終生持ち続けた生き方の基本だった。出所は、陶淵明の「拙を守り手田園に帰る」か、老子の「大巧は拙のごとし」かだという。▼世渡りが下手なことを自覚し、俗世にこびて利を求めるのを卑しいとする人生哲学である。小説「草枕」には「世間に拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときつと木瓜になる。世も木瓜になりたい」と書いている▼生粋の江戸っ子、半藤さんは漱石の気持ちがよく分かるそうだ。夫人が漱石の孫娘である。文芸春秋の元編集長で、筆がたつ。「漱石俳句を楽しむ」は「漱石の俳句を愉しむ」とも「漱石が俳句を愉しむ」ともとれ、漱石になった気分で楽しめる。▼昨年は漱石が旧制五高の教授として熊本に着任してから百周年だった。熊本時代に作った句がたくさん紹介されているのもうれしい。「菫(スミレ)程な小さき人に生まれたし」について言う。 その句が熊本市の京陵中学校の前にある。「もっとも漱石らしい句を選んだ熊本の関係者のみなさんの心やり、目の高さに感動します」。後に博士号を辞退した漱石の姿勢か゛、この句にも見える。素朴で清純でやさしいスミレが、いま無心に咲いている。
更新日時:
2001/04/19
16    漱石と味の素
「味の素」との関連を少し書いてみたい。
私の小さい頃「味の素」は頭のよくなる調味料とよく言われていました。私の弟がよくかけてましたので、私もと思いましたが、私は使わずに育ってしまいました。また、巷間に流布しているうわさ話は、「味の素」をどうすれば売れるかという問いにある社員が「振りかける穴を大きくしたらいい」とったということです。
 
質問です。「味の素」は本来どういう人体的効果というか料理的効果があるのでしょうか。また、「味の素」の創業者というのはったい誰なのでしょうか。
 
というのも「味の素」の発見者は「池田菊苗」だと思っていますが−−。彼でしょうか。というのも彼と漱石は−−−。
 
ロンドンの陰気な空気に沈んでいた漱石を少しでも救ったのは池田菊苗でした。ベルリンから来た彼と約3ヶ月ロンドンで同宿する事になる。漱石は彼への熱い思いをこう書いている。「池田君は理学者だけれども、話してみると偉い哲学者であったことには驚いた。大分議論をして大分やられたことを今に記憶している。倫敦で池田君にったことは、自分には大変な利益であった。おかげで幽霊のような文学をやめて、もっと組織だったどっしりとした研究をやろうと思い始めた。」
 
彼との出会いも文学者漱石の誕生の一要因であった。そう考えると、漱石を育てた味の素」をもう少し振りかけようかとも思っています。
 
更新日時:
2001/04/19
17    子規と漱石
子規と漱石は、漱石22歳の時に出会った。翌年漱石は、東京帝国大学英文科に入学した。終生漱石は、子規に俳句を添削して貰っている。松山では同じ家に住んでいた。漱石の松山行きの原因は、なにか、はっきりとは判らないが、精神的な面は別として子規が松山に居たことも、その要因の一つかも知れない。
 
子規は、死ぬ前にロンドンの漱石に最後の手紙を送っている。
「僕ハモーダメニナツテシマツタ、−略−
若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレタマエ−−略−
僕ハ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。実ハ僕ハ生ハテイルノガ苦シイノダ。−−略−−書キタイコトハ多イガ苦シイから許シテクレタマヘ」
 
こんな手紙を書ける人がいることも凄いが、貰ったらどうだろう。漱石は漱石でロンドンで「漱石発狂せり」と云われるくらい、苦悩しながら自己の立脚点を求めてあがいていた。
更新日時:
2001/04/18
18    私の好きな言葉−野分から−
漱石の作品群の中で特に好きな言葉はとなると「野分」の中のこの言葉になる。
 
僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだから。綺麗でなくっても、痛っくても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れて居ればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんなことは構わない。たとい飛び立つほど痛っくても、自分で自分の身体を切ってみて、成る程痛いなという所を書いて、人に知らせて遣りたい。呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないのか、世の道楽者に教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思って居なかったが、云われてみると成る程一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なのだ。
 
みんな自分のことはわからない。自分のことはいいところばかりしか見ようとしない。あなたの本体は−−−。「羅生門」の世界ですね。
更新日時:
2001/04/18

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Last updated: 2002/4/14

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