最近仏教やキリスト教関係の本を読む機会があり、また身近な人の病気、死、など、いろいろあった。そういう中で、自分だけでは解決できないこと、人では解決できないことって、あるんじゃないのかな、考えてみたりします。
鬱病の友だち曰く、自分はたまたまいい先生に巡り会ったことと、宗教を信じていたから、家族の力もあったのだうが−−−。友だちは創価学会だったが、とてもいいからと新人間革命ともう一冊の本を転勤前にくれた。人を救うのなら、創価学会とか何とか宗教は別に、宗教も力があるな−−人を救う力があると思った。今日も「宗教を知る、人間を知る」という河合隼雄、賀川乙彦、山折哲雄、合庭惇共著を読んでいると、宗教を信じない日本人は、世界的には希な民族だという。大多数の人は無宗教だと思う。イスラム教の信者は世界で10−15億人というからすごい。神なにもキリスト教、仏教、イスラム教などとこだわることはないだろうが、「苦しいとき」神にすがる、神の声を聞く、敬虔な精神というものも、必要かも知れないな−−なんて、考える時がありますね。他の宗教を許さないと
いうまずい点もありますが。
遠藤周作「女の一生第二部」を読む。
コベル神父って名前は聞いたことがあったが、アウシュビッツで人の代わりに自分の命を投げ出した神父様、長崎の教会に居たんですね。アウシュビッツでは、人よりも長生きしたい、生きたい、という人がたくさんいたことだろう。人よりも少しでも多くのパンを多くのスープを、奪いたい。ってエゴイズムまるだしのところもあったことだろう。やさしい人間なんて、早く死ぬだけだ。「ひとへの愛」なんて感情さえ湧かない。この小説ではコベル神父は「愛がなければ愛を作れば−−」と語る。「生き地獄の人間の中で愛を作れば−−」凡人は無理です。
以前五木寛之も、満州から引き上げてくるとき、人の食べ物を奪って、人をけ落として生きてきた人を何人も見てきた、子供の食べ物さえ奪う日本人がいた、優しさなんか持ってたら生きて帰れなかった、だから今申し訳ないという気持ちで生きていると書いていたが−−
念仏を唱える、祈る、という気持ちもだんだんわかる歳になってきましたね。
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