太宰府天満宮
案内
平安時代、大宰府に左遷され、この地で亡くなった学問の神様・菅原道真
(すがわらのみちざね)公をまつる全国天満宮の総本社。
起こり
菅公(かんこう)が亡くなった時、 無二の忠臣として側に仕えていた味酒安行(うまさけのやすゆき)は、菅公の棺を牛に載せ、安楽寺四堂の側に葬ろうとやって来たが、牛車が安楽寺の神苑に入るとなぜか牛が動かなくなった。安行は、これを天の啓示とうけとめ、その地点に公の棺を埋葬。 905年、安行はその墓の上に祠を建てたという。この墓所が天満宮本殿がある場所であり、天満宮の起源とされる。
カンコー学生服はここが語源ですね。
天拝山
菅公の伝説で有名な標高258メートルの山。別名天判山。山頂に祠があって、菅公が山麓の竜王の滝で身を浄め、天拝にって、百日間山上に立って、無実を天に訴えたと伝えられている。 それが雷神となって都の悪人どもを悩ましたといわれている。
その時の石が祠の中にあって、天拝石と称されている。かたわらには石碑がある。
竜王の滝は別名紫藤の滝。菅公が滝に打たれる時、衣を掛けた石が衣かけ石。 滝の流れの中に石塔があり、漢詩が刻まれている。中秋の名月には観月会が催される。天拝山頂でかがり火を焚き、菅公の霊を慰め
る。
昔一度だけこの山に登ったことがあります。
東風《こち》吹かばにほひをこせよ梅の花 主《あるじ》なしとて春を忘るな
野田さんが書いていた道真のとても有名なホームページ。
http://www.page.sannet.ne.jp/yamakage/jcp/jcps1006.html
確か大阪女子大の大学院生の女の人のホームページだったと思います。小さい頃いじめられてて、その時菅原の道真に出逢いそれ以来づつと彼を研究している女性だったような気がする。
菅原道真(すがわらのみちざね・845〜903年)学問に秀でた菅原一門の平安前期の公卿・学者・政治家。従二位。右大臣。
(『日本紀略』によると923年4月20日従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈る993年5月20日(6月26日とも) 左大臣正一位を贈る993年閏10月20日 太政大臣を贈る)メールで情報いただきました。
是善の子。京都の菅原院に生まれた。
宇多・醍醐両天皇の時代、文章博士・蔵人頭などを歴任、藤原氏の専横を抑える
ため右大臣となった。
894年遣唐使に任命されたが、建議して奈良時代から続いた遣唐使を廃止した。
901年左大臣藤原時平のざん訴により大宰権帥に左遷され、903年2月25日流刑地
で憤死し、安楽寺に葬られた。
道真は時平より26歳年上で、道真は宇多上皇と醍醐両天皇の信望厚く、天下の
政治を専決すべき密詔をいただいた。
道真は固辞したが、時平らは妬んで、道真が女婿斉世親王(宇多上皇の皇子)を
擁立しようとしていると偽って奏上した。
時平は芝居気たっぷりの魅力的で世才・権謀術にたけた政治家だった。
菅公は怒りの神様、雷様になって時平を苦しめたという。詳しいことは大鏡の左
大臣時平を参照。ざくろ天神。いかり天神。
菅公が亡くなった翌年から都で落雷が相次ぎ、時平が急死、醍醐天皇も亡くなっ
た。
朝廷は菅公の怒りを鎮めるため、元の位に戻し各地に流されていた子供達を都に
戻した。
菅公には息子10人、娘3人いた。長男は土佐に流された菅原高視卿。
菅公は漢詩や和歌・書に秀でていたので、学問の神様、天神様として、全国各地
に祭られ、広く民衆に信仰されるようになった。
編著「日本三代実録」。漢詩文集「菅家文草」「菅家後草」(「菅家後草」は左
遷された後の血を吐くような詩で、優れているといわれている)。白太夫が道真
の一生の詩を菅原高視卿の元へ持って行った。
月夜見梅花は11歳で初めて詠んだ詩。
菅公は武道も優秀で弓の名手だった。
今年1100年祭ですね。
井沢元彦得意の「怨霊思想」。菅原の道真の怒り、怨霊を沈めるために京に神社
が造られたと記憶してます。
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