(日本は神国なり)
私はまさにこの時代の教育を受けました。
記憶する限りの思いでを書きます。
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小学校入学は1935年一年生で、覚えているのは担任の先生が女の先生で優しかったこと当時はめずらしく全校生徒1100人の中でメガネをかけていたのは三人だけだった。
国語は「サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ」で始まり・集団登校で大きな声をはりあげて、歌うのは♪今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです・・♪天〜にかわりて不義を打つ忠勇か無双の我が兵は・・♪勝って来るぞと勇ましく・・・・など軍歌ばかりでした。
わが家は七人兄弟・兄が三人・姉が一人・弟が二人の、ど真ん中・着るものは兄の、お下がり、教科書は破れる寸前でお古ばかり・回ってくる頃に、ズボンはツギだらけ・六才年下の弟はなんでも新品でした。兄と喧嘩をすれば、弟のくせに!弟と喧嘩すれば、兄ちゃんのくせに!どちらにしても不利なんです、少々ひねくれていたかもね??でも、とても賑やかで楽しかった。食事時などはさぁ〜大変・又一人が病気すると枕を並べて・・母は育てるのに大変苦労したと思います。
小学4生になると教育も厳しくなり・終身・道徳教育・教室内は誰一人喋る者もなく小学校入学から教育勅語に始まり日本のすることは何でも正義・正義と頭に叩き込まれそれを信じていました!!
まず第一番に教えられたのは、校門の奉安殿に最敬礼する事毎月1日、興亜奉公日には御真影が講堂に飾られ、校長先生が教育勅語を朗読された。「国に忠を、父母に孝を、兄弟(けいてい)に相和し」。小さな子供たちにはちんぷんかんぷんだったけれども、式典の間は背筋を伸ばし、不動の姿勢で立ち続けていた。 登校、下校時には、奉安殿の前で衣服を正して最敬礼。きめられた通り、素直に守る毎日だった。でも、子供らしい無邪気さ、快活さは失っていなかった。
二宮金次郎の銅像に礼をしてから校舎に入るようにと言ふことでした朝礼では、まず東に向かって一分間の最敬礼!低学年の私には何故なのか理解できませんでした第二の疑問は奉安殿にはいったい何が入っているのか先生に聞くのも怖いし暫らくはナゾのままでした
授業中に咳払いなどすれば皆の目が一斉に集中するのです。授業中にヒソヒソ話が見つかると容赦なく鉄拳が飛び僕は授業中に喋りましたと書いたカードを首にぶら下げて一日中廊下に立たされます!先生に逆らえば・顔が腫れ上がるほど殴られます。
(今の時代なら暴力教師ですよね)?
喧嘩をすれば教員室に呼ばれ・喧嘩両成敗で教員室の入口に立たされます・はじめはお互いに睨み合いなんですが時間が経つと仲良くなって無事解放です。当時学校の先生といえばとても偉いであって怖い存在でした。成績の悪い子は放課後、残されて二時間の補習です。学校は勉強するところで、詰め込み主義?ですが先生は教育に熱心で尊敬に値する人でした!
祭日の授業はありませんでしたが、現在のように休みではなく儀式のためだけに三年生以上は登校しなければなりません・講堂に集められた生徒はシーンとして直立不動の姿勢です。講堂の正面には大きな日の丸の旗が掲げられ・講堂の入口から校長先生がモーニングを着て白い手袋をはめ、教育勅語の入った桐箱を恭しく捧げて入場!式典の始まりです。まづ校長先生が教育勅語を奉読・国歌斉唱・校長先生の訓示・校歌斉唱・厳粛そのものでした!やく一時間で終わりです。
ただ嬉しかったのは教科書や鉛筆の入ったカバンを背負わずに登校する事・早く家に帰って遊ぶ事でした。
教育勅語てご存知ですか?読んでも訳の解らないことが書いてあり、でも強制的に・無理やりに暗記さされるんです。なにしろ覚えないと先生が怖いもんだから皆必死でした。学校の授業が終わって家に帰れば遊ぶのみ!でも我が家は・今流に言えば教育ママ??帰宅してから一時間は補習しないと家から出してもらえません。よく二階の窓から抜け出して叱られました。
「チョーン、チョン、チョン」小気味よい柏木の音。自転車の後ろに紙芝居の箱を積んだ、おじさんの到来です。手にはしっかり1銭玉を握り、仲のいい友も、けんかをした相手も、仲良く歓声をあげて飛び出してくる。 紙芝居を見る前にまづ・1銭で買うのは、ジャムかソースをぬったせんべいか、こねて白くなるのを競う水飴か、甘い味のついたイカの足のいずれかだ。 1銭の持ってこられなかった子は後ろのほうで隠れるように寂しく見ている、
やがて「デデン、デン」と太鼓の音。手に汗を握り、息をひそめ、時には笑いあり涙ありの数十分に胸をときめかせたものだった。
映画を見たことがない子供でも、紙芝居やめんこ、日光写真などで、ヒーローのカッコよさは知っていて、目を釣り上げて見えを切る。
当時は車もなく、子供たちには伸び伸び遊べる天国だった。そんな道路遊びの一つが輪回しだ。 木桶のまわりにはめる竹製のタガの輪を棒で押し、倒れないようにバランスをとりながら走り回る遊び。デラックス版は、壊れた自転車の車輪のリムを使うことだった。さびたリムをペーパーで磨いてピカピカに。転がるリムは、太陽の光にまぶしく輝く。二つ、三つと並んだリムが、チーン」と激しくぶつかりあってスリルは満点だ。 素朴で単純な遊びでも、子供たちは、いつもかっこいい主役になりきっている。
当時のおやつと言えば、蒸し芋・ビスケット・などなど又貯めたお小遣いから一銭玉を持って駄菓子屋に行くのが楽しみでした。私の少年時代は現代のように、お金さえ出せばなんでもあると言ふ時代ではありません・近所の駄菓子屋さんの、“一銭洋食” 鉄板の上に小麦粉の水どきを「ジューン」と丸く伸ばし、ネギ、天カス、赤い干しエビ、青ノリや粉カツオをのせ、もう一度粉の水どきをかけて裏返すと出来上がり。昨今のお好み焼きとはくらべようもない質素なものだけど、昭和ひとけたが子供のころには、だれもが楽しんだおやつだった。はけでたっぷりぬったソースが、鉄板の上で「ジュー」と焼けるにおいが食欲をそそり、ここで切った熱々(あつあつ)を口に入れて、ワイワイ、ガヤガヤ。菓子類も豊富ではなくバナナ・ケーキなどの高級品は病気をした時とか・誕生日ぐらいしか口にできませんでした。 少し上等な菓子はキャラメルで、これは遠足の時にゆで卵と一緒に持たせてくれた。10粒入りが5銭で(これが普通)、20粒入りが10銭だった。森永ミルクキャラメルは現在も同じ意匠を売っていて懐かしい。
そのころの昼食の時間、めいめい持参した弁当を食べていた。家が近くのものは帰って食べたり、なかには塩味ご飯だけ入っている弁当箱を持ってくる者もいた。 三年生のときクラスに裕福な商家の息子がいて、昼休みになるとお手伝いさんが弁当を持ってやってくる。その一方で、家が貧しくて昼飯が食えない子もいた。クラスにそんな子がいるのに気づいた。
その子は自宅に帰って食べた振りをしていたが、じつは家に帰らず、校門を出てからその辺をぶらぶらして、適当な時間に教室に戻ってくる。あるとき、私は持っていた玄米パンをその子にさりげなく差し出した。「○○君、食えよ…」と言ったら、無言でその手を払いのけられた。ひもじい思いをしても同情はいらないという彼なりの意地があったのだろう。無理やり押しつけたら、心なしか目が潤んでいた。先生はそんな子を教室に呼び戻して、自分の弁当を与えていました。それを見て他の生徒たちは、僕の分も!僕の分も!とお互いに助け合う事を、自然にうえ付けられていたのです。
当時・国の奨励は!産めよ・増やせよ・子は宝!で兄弟は七人位が普通の家族・少し多い家は十人以上で友達も多く居ました。遊び道具は自分たちでこしらえるんです。山で木を切ってきて刀・竹馬・紙鉄砲などお互いに教えあいながら・何でも想像力豊かに楽しかった。 わが家の裏は深い山(現在は巨大な千里ニュータウン)遊びは兵隊ごっこ・探検・などと山中を駈けずり回っていました。私の小学時代習い事といえば土曜日・日曜日に習字・ソロバンしかなかったのです。
いよいよ六年生・中学に進学(五年制)にするか・高等小学校(二年制)にするか決めなければなりません!ほとんどの人は高等小学校で就職・親もあまり教育に熱心ではなかったのかな〜 私は中学校の進学に決めました!当時は偏差値などはなく自分の希望する学校に決めることが出来ました。担任の先生から君は、あの学校は無理だよ!なんて言われる事はありませんでした。でもスベッタラ格好が悪いから自ら受験勉強に必死でした。
いよいよ楽しかった小学校にもお別れです。
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