中学一年生・知った友達も居ないので何から、何まで一から出直しで緊張していました。学校までは一時間20分かかります。上級生・下級生の差別が厳しく途中で教官や・上級生に会えば敬礼しなければなりません。校門では上級生が赤いタスキをかけ木刀を持って立っています。(この生徒は学校公認です)お前の服装が悪い・帽子の被りかたが悪いとか・少し上級生への応対が悪かったりすると木刀で小突かれポケット鞄の中まで点検です。校門を通るときは何時もビクビクしていました!
中学になると学科もふえ少し不安です。(数学・英語・漢文・幾何・機械工作・教練)学習のため、よく参考書を・虎の巻を日本橋へ買いに行きました。(当時日本橋三丁目の松坂屋百貨店付近から恵比須町までは本屋さんの街でした)担任の先生は軍人で、たしか?曹長だったと思います。最初から厳しい教育で戸惑いました!!クラスの誰かが遅刻したりすると全員が連帯責任として殴られます。当時の学校はこれくらい普通だったんです。
中学一年二学期の終わり頃(昭和16年12月8日)大東亜戦争勃発!真珠湾攻撃に始まり勝った!勝った!で日本の国民は勝ちムードに酔い痺れていたのです。日本は神国なり!正義は必ず勝つ!すべての国民は信じていたのです。二年生になると英語は敵国語といふことで廃止!学校の教育も完全なる軍事教育・月に1度は、教練で戦場の兵士と同じ重さになるよう背嚢に砂を詰め、銃を担ぎ40`の夜行軍です。当時私は14才・教官は落伍者にには容赦なく激怒!他の者は恐ろしさのあまり苦しみを耐えるのに必死でした。
三年生のなかば日本の戦況も衰え始め人員不足・物資不足・食料は配給制になり!中学時代は随分ひもじい思いをしました。腹八分目は健康のもと、当時は腹三分目・腹が減ってるのに口にいれるものがない!水を飲んで耐え凌いでいました。空腹のあまり通学途中・闇市で買い食いをして(当時教護連盟といふ組織)があり、その人達に見つかると厳しく取り調べられ、学校に通報!翌日朝礼で呼び出され教官から殴る蹴るの暴行を受けるのです。運悪ければ二週間の停学処分です(ドラマで妹尾河童の少年Hご覧になりましたか?)当時の自分を見ているようでした。教官に一度・睨まれると(何もしてないのに・お前のその態度はなんだとか、何かにつけて)殴られる回数が多くなります。
戦争も益々激しくなり授業らしい授業もなく工場へ動員です。行き詰まった政府は14才以上の男子生徒・女学生は軍需工場や軍事施設などへの出動を命じました。学生の細腕を借りなければならないほど戦況は緊迫していました。「男子は戦場へ・女子は銃後の守りを」大本営は国民が戦意を失はないように、戦果は大きく・損害は小さくして発表していました。真相は一般国民には知らされず全く「藪の中」あらゆる物資の不足で食料が手に入り難く、このような生活実感から日本に利のない事を感じ、とっている人達も多くおられたと思います。でも当時は言論の自由がなく、うっかり口に出すと憲兵に連行され投獄されたのです。日本の国民も自由を奪われて、いたのです)戦争も激しくなり昭和18年なかば・アメリカ軍の反撃で武器?弾薬・兵士の不足で、一般家庭の鐡・貴金属類はすべて強制的に拠出させられました。日本軍の進撃が止まり撤退の始まりです。
昭和18年10月、小雨降る明治神宮外苑の中・大学生の学徒出陣の壮行会・前途有望な先輩たちは、お国の為・天皇陛下の為・尊い命を捧げられたのです。徴兵を拒否すれば非国民で投獄の時代です。制服制帽に銃を担ぎ水しぶきを上げながらの行進その爽快な顔が悲哀を感じました。関東77校、7万人の出陣学徒が、冷たい雨の降りしきる中、制服制帽にゲートル、剣つき銃のいでたちで東条英機首相、岡部長景文相らの閲兵をうけた。泥水をものともせず行進する学徒の姿は国民に感動と悲壮感を与えた(このシーンは、現在もときどきテレビで放映されている)。 そして12月(陸軍は1日、海軍は10日)、全国の大学高専の法文科系在学生は推定13万人が学業半ばのまま戦列に加わっていった。
多くの前途有望で優秀な学生が死地に赴き『きけわだつみの声』の悲劇を生んだのです。
「大学や高等師範学校などの在学者は最高27歳まで徴集が延期されていた。この制度は1943(昭和18)年10月に廃止(学徒出陣)されたが,理工系や医科系の学生だけはなお猶予された。」
満20歳以上の約10万の学生は直ちに軍隊に入ることを命じられ強制的に陸海軍に入営させられたのです。これが悲劇の「出陣学徒」です、日本軍は敗戦の途を急速に辿りつつあり、兵士になることは死を覚悟しなければならない状況でした。学生は学問の道を断ちがたく・肉親との別れ難い思い・軍隊生活への不安・義務とのはざまで苦悩の葛藤があったと思います。昭和18年の後半私達・同級生の中にも予科練・特別少年兵に志願した人達がいました。もう学校の勉強はありません。学徒動員で軍需工場へ常勤です。重労働で慣れない仕事の為、片腕を失った同級生・火の粉が飛び散って全身やけどした同級生・尊い命を亡くした同級生・あまりにも悲しい出来事です。
でも私達は、国を守るため・に働いている事を誇りに思っておりました。
中学三年昭和18年5月前列左から
3番目が私です。
銃を担ぎ背嚢に砂を詰めての
強行マラソンで優勝ときの写真です。
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