備前国邑久郡東須恵村 浦上氏

現岡山県瀬戸内市長船町東須恵 浦上氏
1    はじめに
 
 東須恵村浦上氏に関する史料は初代太郎三郎成宗(しげむね)以下代々の墓碑と位牌が主なもので、伝承が大半を占めています。
 このページはそれらを足がかりにして、天神山城落城後の出来事から、一族が東須恵村に住むまでの実像に迫ってみたいと思います。
 
更新日時:
2006/07/16
2    落城後の資料
 天正3年浦上宗景の居城天神山城は、宇喜多直家に攻略されて落城しました(落城年については諸説があるが本書は天正3年とします)。その模様については、『和気絹』(宝永6年(1709)高木太亮軒が記す)・『吉備前秘録』(宝永年間に書かれたものであるが著者不詳) ・『備陽国誌』(元文2年(1736)和田正伊ほか五名が記す)・『備前軍記』(安永3年(1774)土肥経平が記す)・『天神山記』(天明7年(1787)藤一雲が記す)・『吉備温故秘録』(寛政年中備前藩士大沢惟貞が記す)などに書かれていますがまちまちです。その中で大筋で事実に近いと筆者が思っている『吉備前秘録』を引用します。
 
城を落て邑久郡牛窓に引退く。此時嫡子宗秀並家人日笠弾正を始め譜代恩顧の者少々付まとい落行き其外従類悉く山林に逃隠れける。中にも宗景の末子二歳になりしを乳母が懐に隠し邑久郡飯(いい)の城主高取備中守は姨が聟たる故是を頼む。高取養育して人と成り後浦上太郎三郎と名乗る其子孫民間に沈み東須恵村に有とぞ。
 
 この記述は、@逃避行の状況、A末子を高取備中守に預け養育を頼む、B子孫が東須恵村に住むという三つの内容になっています。これらに付随するものも含めて検討してみたいと思います。
 なお文中の「嫡子宗秀」に関する史料はないので実在した人物なのか不明です。宗景と同時代の一族に嫡子ではないが「秀宗」がいますので、宗秀と誤写された可能性もあります。また「宗景の末子」としているが「宗景の孫」と考えられるので詳しく後述します。日笠弾正は日笠青山城の城主で、宗景の股肱の家臣です。
更新日時:
2006/07/25
3    お姫さま伝説
 この伝説は落城直後の事件を伝えています。
 『和気郡誌』(明治42年発行)の「墳墓及び石碑」の項に「姫君生害の地」として次のように記述しています。
 「日笠村大字日笠下字下山崎の東山腹。古木鬱蒼たる所にあり。天神山落城のとき、御姫様生害の地なりと、口碑に伝ふ」。
 この口碑伝説の主「御姫様」は城主浦上宗景の娘のことで、下山崎の東山腹で自害しその地に祭られたことを伝えています。
 最近では山陽新聞(平成14年3月15日)が「巨樹シリーズ」で、和気町日笠下の「お姫様のムクノキ」というテーマでこの伝説を掲載しています。関係箇所を転載しますと、
 
 ムクノキは和気町日笠下の下山崎地区のシンボルとして親しまれています。根元で二股に分かれ、目通り周囲は4.2b、高さは約26bで推定樹齢は約400年。(中略)
 ムクノキにはお姫さまの言い伝えがある。1577(天正5)年、戦国大名宇喜多直家に攻められた天神山城が落城。城主浦上宗景の姫が落ちのびて、下山崎地区のほら穴に隠れたが、後に病気になり亡くなった。村人たちは姫の死を悲しみ、ムクノキの下に小さな祠を作り祭ったといわれる。
 ムクノキの調査に当たった和気町文化財保護委員の新田義夫さんは「言い伝えはいくつか違ったものも残るが、村人が姫の死を悼み祭ったことに間違いはなく、先人の息遣いがそこに感じられる」と話す。
 祠には地域の守り神も一緒に祭られ、木の下の広場では毎年夏、祭が行われる。(後略)。
 
 まず落城直後の宗景一行の行動を追ってみます。
 家老たちの裏切りで燃えさかる城を後にした宗景一行は、譜代の家臣日笠弾正外若干名と宗景の娘及び二歳になる子を抱いた乳母と考えられます。一行は城の東の山伝いに和気町木倉へ出て谷間を下り、日笠弾正の居城青山城の傍らを通り、日笠川のほとりに出たと想定されます。その日笠川のほとりがお姫さま伝説の地日笠下地区です。
 天神山(標高409メートル)から日笠下までを地図の上で計れば直線距離で約4`ですが、実際の道のりははるかに長い山道です。脱出を急ぐ一行は可能な限り早足で山を下り、日笠川のほとりに着いたが、娘は力が尽きたのだろう。山道の強行は娘の体力をはるかに超えたものであったに違いありません。しかし先を急ぐ一行に介護の時間はなく、断腸の思いで娘を残して出発したのでしょう。
 後述するように宗景は高取備中守の弟彌四郎を養子に迎え娘と結婚しています。二歳の子はこの夫婦の子と推定できます。彌四郎は落城の際非業の死を遂げたものと思われます(後述の若宮神社の項を参照して下さい)。        娘は夫と死別し更に息子と生き別れという過酷な運命と体力の消耗に耐えきれず息を引き取ったのでしょう。『和気郡誌』が伝えるように、武人の娘らしく自害したのが真実かも知れません。
 村人は姫の悲運な最期を悲しみ、手厚く葬り墓標を建てて祭った。『和気郡誌』が書かれた明治42年には、東山腹の古木鬱蒼とした自害の地に祭られていたが、後に現在地に移し社として祭ったものと思われます。
 傍らのムクの大木が、いつしかお姫さまゆかりの木として大切にされたのでしょう。
 以上の経過の中にお姫さま伝説がきっちりと収まりますので、この伝説は真実味を持っている思います。
 
更新日時:
2006/07/16
4    天狗谷の伝承
 倒れた娘を残して出発した一行は、飯井村高松城主高取備中守に2歳の子と乳母を預け牛窓へ向かった。『吉備前秘録』の「城を落て邑久郡牛窓に引退く」というのは牛窓港から出航するのが目的です。牛窓港は備前国で大船が出入りできる唯一の港です。行き先は播州で黒田官兵衛を頼ったという説が有力です。
 出航を見送った従者は「悉く山林に逃隠れ」たと同書は述べています。このことを実証するような伝承があります。片山廣道氏(牛窓町鹿忍出身。郷土の地名研究家。故人)が『故郷地名随想』の中で、天狗谷の「きみがはか」伝説について次のように述べています。
 
「きみがはか」について語るには千手牛窓町鹿忍地区岡崎家との深い関係を抜きにしては語れない。
 岡崎家の伝承によれば、戦国の世天神山が落城したとき、城主浦上宗景の家臣であった岡崎家の先祖が千手山を頼り、ついで天狗谷に池を造り田を開き、居を構えてひそかに暮らしたという。
 当主左織氏の言によると、「きみがはか」の地所は祖父の藤五郎の名義になっている。また「きみがはかを粗末にする勿れ」の家訓があり、幼児から祖父に手を引かれて参拝させられたという。
 岡崎家が考える「きみがはか」の主は先祖が仕えた主君宗景である。(中略)
 現地を訪れ、「きみがはか」の向く方角を地図と磁石で測定した所、まさにその方向は天神山であった。
 岡崎家では「きみがはか」の碑石は、江戸時代の末頃、一族相集まり協力して建立したものと推測している。
 
 天狗谷は宗景一行が出航した牛窓港から西へ約4`ほどの地です。この岡崎家の伝承は『吉備前秘録』の従者は「山林に逃隠れける」という記述とぴったり対応しています。先に同書の記述は真実に近いと書きましたが、その理由の一つに天狗谷が牛窓港に近いことが挙げられます。
 文中の「きみがはか」を漢字で書けば「君が墓」です。岡崎家の推測に従えば「宗景の墓」ですが、宗景の骨を埋葬しているとは考えられません。多分、宗景の供養塔の意で江戸時代末に建立されたと思われます。
 このことについて立ち入って検討してみます。
 「きみがはか」について『備陽国誌』(元文2年(1737))編集には、きみが塚は「天狗谷にあるのは何の故と云事を不知」とあり、『吉備温故秘録』(寛政年中(1789ー1801)編集)には、「天狗谷と云、此谷下大池の少し上に、幅一間、長さ二間余り、高さ四尺ばかりの塚あり、これをきみが塚と云」と記録しています。落城後160年経過した元文2年のころには塚と認識されていたことが分かります。
  天狗の意につていは触れていませんが、天神山城の守護神が通称天狗と言われていたことから、同城の守護神を勧請して祭り、その谷を天狗谷と命名したものと思われます。
 守護神天狗の正式な神名は天手力男命ですが、このことについては後述の「ごんそう社の由来」で説明します。
 『備陽国誌』などに記述されている「きみが塚」は、当初は天狗を祭る社であったと推測できます。天狗谷と命名するほどですから、社が建立されたのは当然です。同書が書かれた元文2年は岡崎家は5、6代あとの頃です。その頃になると同家に伝わっていた天狗の伝承は消え、「何の故」か分からない状態になっていたのでしょう。それに引き替え同家の子孫は、我が先祖は宗景と行を共にした家臣であったという一族の誇りが、一段と強くなっていたと考えても不自然ではありません。そのため天狗の社はいつとはなしに「きみが塚」と主君宗景の墓として祭られたのではないでしょうか。
岡崎家の初代は牛窓港まで宗景一行を見送ったと推測できることから、忠臣であったのに相違ありません。だからこそ落ちのびた地に天神山城の守護神天狗を祭り、その谷を天狗谷と命名し一族のシンボルとしたと考えられます。
 
更新日時:
2006/12/25
5    藤原家の伝承
 長船町西須恵藤原栄三郎家に伝わる伝承があります。同家は高取備中守の居城から西へ約2`離れた所にあります。
 屋敷内に社を建てて祭っておられ、文久2年に再建した際の棟札を保管しておられます。内容は次の通りです。
 
 表面
   于時文久二歳  大工當村高原□市
奉建立鎮守根本祖神繁栄祈
   酉九月吉日 願主藤原重右衛門義治
 裏面
和気郡天神山浦上遠江守家臣知行高七百石藤原茂左衛門天正五歳丑八月十日天神城宇喜多左京攻落サレ浪人ト相成子息弥左衛共當地ニ落来天保年中相改鎮守祭
 
表面に書かれている根本祖神とは当地に隠遁した藤原家の初代茂左衛門のことと思われます。裏面の由緒書から同家の先祖を知ることが出来ます。先祖を誇りに思う念から書かれたものでしょう。
 隠遁した地が備中守の居城に近いことから、宗景が備中守に二歳の子と乳母を預けた際、茂左衛門親子は付け人として当地に留まったものと思われます。同家にはそのように伝承されています。住んだ所は畑山大聖寺の寺域に接しています。備中守が帰依していた医王寺は大聖寺の組下であることから、備中守が茂左衛門親子の隠遁の地を斡旋したのかも知れません。
 
更新日時:
2006/07/16
6    若宮神社
当社は長船町飯井伊良高八幡宮境内に鎮座しています。
 由緒について『吉備温故秘録』「巻之三十八」の古城山の項に、
 
 高取備中居城、天神山の麾下なり。祿三千石を領す。戸川秀安の舅なり、秀家卿の母たま殿と云に内縁有、子を備中守と云、弟に彌四郎といふあり、此彌四郎は宗景の娘を給はり妻とせし由。死後に子細有て邑久郡飯井村に若宮と祝ひある由、子備中守継で居城、宇喜多家へ仕ふ。戸川肥後守大阪屋敷へ取籠るときも肥後守に与力せず、関ヶ原にて討死にす。
 
 と記録されています。
 彌四郎は宗景の娘と結婚し、浦上彌四郎と名乗っているので養子縁組をしています。彌四郎を若宮として祭ったのは、非業の死でこの世に恨みを残しているためと思われます。
 若宮について柳田国男監修『民俗学辞典』には次のように解説しています。
 
 大きな神格の支配下に置かれる前提の下に、はげしく祟る霊魂を神として齋いこめたもの。…(中略)…(若宮は)概して非業の死を遂げた者が祟りをなすのを怖れて、巫女神職のすすめにしたがい、神として祭るに至ったという由来のが最も多く、祭を怠れば直ちに祟り、その活動のはげしさは到底和やかにして偉大な神霊とは比べものにならぬほど人間的で、いわばまだ神になりきれぬ段階ともいうべき性格のものである。…(後略)…。
 
 彌四郎を若宮として祭ったのは、天神山城落城の際非業の死を遂げたためと考えられます。『天神山記』には家老明石飛騨、延原弾正らが宇喜多と内通し城に火を放ったとしています。大混乱の中での討死はまさに非業の死で、若宮として祭られて当然な最期です。前掲書に「死後に子細有て」と書かれている子細とは、およそ以上のような内容と思われます。祟りを怖れ霊を鎮めるため若宮を建立したのでしょう。
 若宮は今も伊良高八幡宮の境内に祭られています。明治初年に作られた『池田家文書』の「神社明細帳」には、
 
若宮神社
本社 六尺四面
  幣殿 桁行一間 梁行三尺三寸
  拝殿 桁行二間 梁行四尺七寸
  祭神 仁徳天皇
  祭日 九月十二日十三日
 
と記述されています。
 この神社の本殿の床下は亀の甲羅のように石が張られていますが、あまり例を見ない特殊な構造です。本殿の下には頭蓋骨を埋めているという伝説があります。当否は別にして彌四郎についての記憶が生々しいころ、墓碑的な発想で生まれた伝説でしょう。
 いつ頃祭神を仁徳天皇に変えたのか分かりませんが、伊良高八幡宮の祭神の一人が応神天皇であることから、その御子である仁徳天皇を祭ることにしたのでしょう。
 東須恵浦上氏の墓地にこの若宮を分祠しています。社の後ろには家の形をした小さな石造物が置かれています。豊島石で造られ当地ではラントウ墓と称する墓石と同じものです。分骨しているとは思えませんが、なぜか若宮社に付随しています。墓碑の意でしょうか。いつ分祠したのか分かりませんが、彌四郎の孫である二代宗利が東須恵村へ移り住んだ時勧請し、祖父の霊を祭ったと考えるのが順当でしょう。現在は彌四郎夫妻を祭っています。
 平成16年12月、若宮社の傍らに由来を書いた碑を建てました。
 
当社は東須恵浦上氏の初代成宗の両親を祭る父は浦上彌四郎高松城主高取備中の弟なり母は浦上遠江守宗景の娘なり天神山城落城の際両親没すと伝う創建年不詳
                          東須恵浦上氏十二代浦上宏
                          平成十六年十二月吉日建之
 
更新日時:
2006/07/16
7    ごんそう社の由来
 ごんそう社は筆者が住んでいる敷地に祭られています。天神山城の守護神である天狗を祭ると伝承されています。
 先に「天狗谷の伝承」の項で、天狗谷とは天神山城の守護神である天狗に由来すると推測しました。本項に記述するごんそう社も同じ天狗であると考えています。
 天神山の山麓に天石門別神社が祭られています。この神社について『和気郡誌』に、「本社創立の由緒、詳ならず。往古字天神山嶺上に鎮座あり。単に天津社と称し(後略)」と記載しています。また同書の別項には天石門別神社の祭神は「天之手力男命と菅原道真を祭る」と記載しています。
 天石門別神社は天之手力男命を祭神として、天神山山頂に祭られていたことが分かります。いつのころか山麓に移されたのでしょう。菅原道真は後に合祀されたものと思われます。
 天神山城本丸の近くに天津社跡地があり、去る年跡地に天津社が再建され、筆者も招待され遷宮の式典に参列しました。
 参考までに近郷に鎮座している天石門別神社を調べてみますと、その多くは天手力男命を祭っています。美作市滝宮の天石門別神社、倉敷市福田町の天石門別保布羅神社の祭神は天手力男命です。岡山市大供表町の石門別神社の祭神は天石門別命ですが、元戸隠宮と称され祭神は手力雄命です。
 天手力男命は天照大神が天岩屋戸にお隠れになったとき、怪力で岩門を押し開いた神ですが、後に門の守護神になり、外敵や悪霊を防ぐ神として祭られました。天神山城本丸近くに祭られていた天石門別神社(天津社)は、城門の守護神で城郭を外敵から守る神として天手力男命を祭ったと考えられます。 
 筆者の屋敷に、天手力男命を祭っている神社は、天石門別神社とは言わないで「ごんそう社」と言います。
 天手力男命は外敵や悪霊の侵入を防ぐ神になって、山門の仁王のように力が強く厳めしい相形をした神とイメージされたのでしょう。「ごんそう」とは厳めしい相形をした神の意で、漢字を当てれば「厳相」がふさわしいと思います。
 拝殿で使用していた献花用の花器には「権宗大明王」と彫り込んでいます。また拝殿入り口の額には「厳僧大明王」と書かれていました。権宗も厳僧も当て字で当を得たものではありません。
 また厳めしい相形から天狗と結びつき、天神山城の守護神は天狗であるという通称が生まれたのでしょう。ごんそう社の天狗とは天手力男命のことと考えて間違いありません。
 先に書いた天狗谷の命名から考えて、落城時には天狗という通称が流布していたと思われます。
 幼いころごんそう社の由来を祖母から聞きましたが、その話は今も鮮明に甦ります。
「ごんそうさまはなぁ、天神山のお城の守り神様じぁ。神様はぐひん様言うてなぁ天狗のことじゃ。ある日新家(分家のこと)から嫁に行ったさよさんが用事があって帰ったときになぁ、ごんそうさまを一心に拝んどったんじぁ。そうしたら神様がさよさんに乗り移ってなぁ、白い衣を着た天狗が現れ、「わしは天神山の天狗じゃ手厚く祭ってくれ」と言われたんじゃ。それで一家(一族のこと)の者が相談して今のお社を建てて祭っとるんじゃ。それまでは小さな祠でなぁ、あんまり祭っとらなんだようじゃ」
祖母の話に出てくるさよさんは、ごんそう社は天神山城の守護神天狗を祭っていることを知っており、大事な神様なのに祭られていないことに胸を痛めていたのでしょう。そのことが一心に拝んでいたとき大きく甦り、天狗のお告げのように意識されたのだろうと思います。
 父が書いたごんそう社の記録によると明治35年に社殿が再建されています。欅造瓦葺きで仕上げています。社殿の周りに土塀を巡らして境内が作られ、門には木の鳥居が建てられていました。
 昭和11年社殿前の土塀を撤去し、2間に1間半の拝殿を建立しています。拝殿には3尺幅の出窓があり供物や仏具が置かれていました。晩年の祖父母が寝泊まりし、毎日法華経の読経を欠かしませんでした。
 この拝殿は経年で老朽化し平成17年11月取り壊し、社殿も100年余り経過し限界がきていたので、18年3月石造の社殿に改築しました。
 平成16年に社殿の傍らに建てた碑には「ごんそう社」と刻み、裏面に次のように由来を書きました。文中の「狗賓」は天狗の別名です。
 
当社は浦上宗景の居城天神山城の守護神を勧請し一族の氏神として祭る祭神は狗賓と伝うごんそう社と称す勧請年不詳
                         東須恵浦上氏十二代浦上宏
                         平成十六年十二月吉日建之
 
 なお更に詳しい由来書を杉板に墨書し社殿内に収めています。
 かつて社の後ろには榎木の老大木があり、木は大きな空洞になっていました。祖母のごんそう様の話から、空洞は天狗の住み家かも知れないと空想していたことを思い出します。近年になって台風で倒れる恐れがあり切り倒しましたが、切る前に神事を執り行い樹霊を鎮めました。
 かって県内の老木や大木を調査している民俗学研究者が、この榎木を調査したことがあります。榎木では目通りの直径が県内で16番目に大きいと話しておられた。
  
 
更新日時:
2006/07/17
8    初代浦上太郎三郎成宗
 成宗(しげむね)は幼名与五郎、成人して太郎三郎と名乗っています。天神山城落城の際、乳母に抱かれて脱出した2歳の子です。この子について『吉備前秘録』と『吉備温故秘録』には、「宗景の末子」とし、馬場家文書の浦上系図には「宗景四男」としています。
 しかし宗景が播州室津城から和気の天神山城へ移ったのが享禄5年(1532) で、落城が天正3年(1575)ですから在城期間は43年です。宗景の生年は不明ですが、落城時の歳は70歳に近い老齢です。その歳で2歳の子がいる可能性は極めて低いと思います。
 また宗景の娘は、飯井村高松城主高取備中守の弟彌四郎を養子を迎え夫婦になっています(若宮神社の項参照)。このことから与五郎は宗景の末子でも四男でもなく、彌四郎夫妻の子即ち宗景の孫と推定できます。末子あるいは四男説は誤伝されたものか、或いは関ヶ原で負けて追われる身になった高取一族との関係を薄くするため、歪曲された可能性もあります。
 父親の彌四郎は落城の際非業の死を遂げ、脱出の一行に加わった母親と乳母に抱かれた与五郎は、日笠川のほとりに着いたとき、母親は力尽き自害しました。先に書いたお姫さま伝説の主です。
 両親を失った与五郎を庇護したのは伯父の高取備中守です(二項の『吉備前秘録』参照)。養育に当たった乳母の出自は、美作国神田山城主渋谷権之丞の娘千代と言われています(浦上元著『備前浦上氏の研究』)。城主の娘として育った千代は、与五郎の母親代わりになり立派に役目を果たしたと思われます。法名の「悲母妙徳尼」がそのことを物語っています。千代は成宗夫妻の傍らに葬られています。
 前掲の『吉備前秘録』には、高取備中守の室は宗景の室の妹である関係から末子を預けたことになっています。この婚姻関係を明らかにするすべはありませんが、事実としても、備中守の弟彌四郎と宗景の娘が結婚した関係の方が濃いわけです。しかし同書は宗景の末子としていることから、このような記述になったのでしょう。2歳の子与五郎と備中守は伯父と甥の関係です。
 成人した与五郎は太郎三郎と名乗り、備中守の娘さわと結婚しています。さわは従妹です。落城時の天正3年(1575)与五郎は2歳ですから、備中守が関ヶ原で討死した慶長5年(1600)には26歳になっています。
 関ヶ原を境に太郎三郎夫妻を取り巻く状況が大きく変わったと思われます。豊臣方の宇喜多秀家の居城岡山城へは、コ川方に寝返った小早川秀秋が封ぜられました。豊臣方に荷担した高取一族は零落の一途を辿ることになり、一族の中には九州の黒田官兵衛を頼って逃げたという伝承があります。
 太郎三郎夫妻がどのように暮らしたのか分かりませんが、三人の息子たちは無事成長しています。
太郎三郎成宗の法名を浄悦といい、妻のさわは妙光です。位牌は本家に祭っています。浄悦の位牌には「妙法浄悦位」と彫り込まれています。浄悦の位牌と同じ形式の位牌があり妙光のものと思われますが、文字が消えているので確認できません。
 墓碑は妙光寺裏山の中腹にあった墓地から、いつのころか山麓に降ろして祭っていました。昭和53年一族が集まり400年遠忌を営みましたが、その期に墓碑を元の中腹に戻しました。墓碑には骨壺が埋葬されていました。その後平成2年9月18日の豪雨で地盤がゆるみ、墓域の後方に亀裂が走り、危険な状態になったので急遽東須恵墓地へ移転しました。移転したのは成宗夫妻、乳母千代、二代宗利の弟治郎左衛門と不明の墓碑の4基すべてです。
4基を東須恵墓地へ移転した際、馬場家墓地に成宗の供養塔として祭っていた五輪塔と燈籠を、成宗の墓の後(写真参照)へ移転しました。五輪塔には小さな骨壺が埋葬されていました。従来供養塔と考えていた五輪塔は実は墓碑でした。この経緯については後述します。成宗は火葬にされ妙光寺墓地と馬場家墓地の2カ所に祭られていました。
 
※飯井村高取氏について。
 前記の記述に頻繁に登場する高取氏について触れておきます。
 備前の鷹取(高取)氏の史料として、太田亮著『姓氏家系大辞典』に、
 
備前の鷹取氏 和気郡伊部村、真言宗長法寺の貞治四年三月廿三日の寄附状に「公文鷹取弾正能佐」見ゆ。
 
 と書かれており、貞治年間(南北朝時代)には伊部村(現備前市伊部)周辺に住んでいたと推測されます。
 『吉備温故秘録』には
 
古城山   西須恵村(高取備中守の本拠は飯井村高松城であるが、西須恵村高山城に拠っていたことがあるのだろう 注筆者)
 
高取備中香登西村の城主、高取左衛門進宗政の子なり居城。天神山の麾下なり。祿三千石を領す。戸川秀安の舅なり。秀家卿の母たま殿と云に内縁有、子を備中守と云、弟を彌四郎といふあり。此彌四郎は宗景の娘を給はり、妻とせし由。死後に子細有て、邑久郡飯井村に若宮と祝ひある由。子備中守継で居城。宇喜多家へ仕ふ。戸川肥後守大阪屋敷へ取籠るときも、肥後守に与力せず。関ヶ原にて討死にす。秀家卿のとき、甚だ気に応じ、内縁もありける故にや、秀吉公よりの状など、今に残れり。
為音信焼物五つ送給候、御心入の段令祝着候毎度御懇志共候、猶黒田官兵衛可申候、恐々謹言
  八月二十七日           羽柴秀吉 花押
              鷹取備中守 御宿跡
備中守弟に喜八と云有。和気郡新庄・畠田の辺を支配するよし。宇喜多家の士帳を見るに、戸川の組に宇喜多喜八、千三百二十石とあり。内縁有に依て宇喜多の称を給はるか未詳。(後略)
 
文中の彌四郎に関することは先の「若宮神社」の項で書きました。
 秀吉の書状に書かれている焼物とは備前焼のことで、度々贈っていたことが分かります。更にこのことを黒田官兵衛に話しておくと書いています。備中守と官兵衛とは親しかったことが読み取れます。
 備中守が住む飯井村には、縁あって官兵衛の兄勝義が住んでいました。このことは勝義の墓碑と飯井村黒田氏系図で推定できます。系図には勝義は幼少の頃から病弱であったことが書かれています。このことから備中守が勝義を庇護していたと思われます。そのため官兵衛と備中守は昵懇であったと推測できます。この事情を秀吉は知っていたので、礼状に官兵衛に話しておくと書いたのでしょう。人情の機微に敏感な秀吉らしい書状です。
 浦上が滅んだ後家臣の多くは宇喜多に属しました。高取も例外ではなく前掲書の通りです。落城後に書かれたと思われる『天神山城主浦上宗景武鑑』にも、備中守の弟と思われる喜八郎は浮田喜八と名前を変えて記載されています(浦上元著『備前浦上氏の研究』)。その後関ヶ原で西軍の総大将宇喜多秀家の麾下であった備中守は討死し、一族は追われる身になりました。
 灘崎町片岡の高取氏の伝承によると、九州を転々とした後ひそかに舞い戻り、戸川氏に庇護され片岡に隠れ住んだと言われています。去る年筆者は同家を訪れ、当主の案内で藪に囲まれた隠し墓地に参ったことがあります。自然石の破片を集めて少し盛り上げ、その上に一石五輪のような小さな墓石が点々と並んでいました。追われる一族の悲哀が胸に迫る思いで花を供え、宇喜多残党の追求は手ぬるいものではなかったことを痛感しました。
 
 
更新日時:
2006/07/17
9    二代浦上小左衛門宗利
 初代成宗には3人の息子がおり、宗利は成宗の嫡子で小左衛門と名乗っています。東須恵村名主馬場治郎左衛門の娘フリを娶り、浦上氏はこの代から東須恵村に住んでいます。『吉備前秘録』に「…其子孫民間に沈み東須恵村に有とぞ」と書かれているのは宗利の代からを指しています。
 小左衛門に関する史料が僅かですが残っています。
 その@
 美和神社に広高八幡宮当時のものが若干保管されていますが、その中に経文を収めた箱があります。蓋の裏には、
 
 万治二己亥年
 大般若箱
 八月放生会 堂寺弥七良
 
 と書かれています。放生会は八幡宮にとって最も大きな祭です。堂寺弥七良は広高八幡宮の神護寺大聖寺の社僧で、寛文6年に同寺が廃寺になってから八幡宮の神職になった人です。現在の美和神社宮司池畑太根夫氏の先祖です。
 箱には大般若波羅蜜多経が十数巻が収められ、その中に小左衛門が寄進した一巻があります。同巻の奥書は次の通りです。
 
  奉寄進 施主東須恵村小左衛門    
     施主東須恵村小左衛門内
   于時寛文三癸卯年八月上旬書写等
    悪筆大聖寺良識書
 
 3代宗吉も2代宗利と同じ小左衛門を名乗っていますが、奥書の小左衛門は2代の宗利です。宗利の没年は不明ですが、3代宗吉の没年が享保19年ですので宗吉のことではありません。
寄進となっていることから、この一巻と金品を奉納したのでしょう。宗利には金品を奉納できるゆとりがあったようです。
 そのA
 万治4年に作られた「郡村地図」の邑久郡地図の下部に記事欄があり、各村の状況を簡記したものと、富人の住所と名前が書いてあります。富人には八名の名前が書かれ、その中に「東須恵村小左衛門」があります。郡内でもかなり裕福であったようです。
 そのB
 『邑久郡史』によると寛文8年酒の醸造を制限する通達が出され、それに基づいて邑久郡内の酒屋が例年醸造する石高732石4斗を半分の366石2斗に減らされています。この文書の員数表には邑久郡内の28軒の酒屋が列記され、減額後の石高が記載されています。
 この表の中に「弐拾石 東須恵村小左衛門」があります。半額が20石ですから宗利は40石規模の酒屋を営んでいたことが分かります。郡内では牛窓村庄屋三平が112石4斗で群を抜いていますが、次が40石級で6軒あり、宗利は郡内ではかなり大きな規模の酒屋であったことが分かります。富人と格付けされたり、氏神へ金品を奉納できたのは、醸造業の営みによる財力であろうと思われます。
 この醸造場があった場所が地名などから推測できます。今筆者が住んでいる屋敷の字名は「上ノ段」(249番地)で、一段下がって「中ノ段」(251番地と260番地)があり、更にその下手の段が「下ノ段」(259番地)になっています。上ノ段には天神山城の守護神である天手力男命通称天狗を勧請し、一族の守り神として祭っています。ことから宗利の代から代々住んでいると考えて間違いありません。中ノ段には現在も良質の水が湧く古い井戸があります。醸造には良質の水が欠かせないことから考えますと、中ノ段は酒蔵があったと推測できます。下ノ段ははっきりしませんが醸造場に付属した物置場があったのではないかと思われます。
 そのように推測できるもう一つの理由は、上ノ段・中ノ段・下ノ段という地名です。この地名は上・中・下という分かりやすい名称ですので、宗利一家と雇用人の間に通用していたものと考えられます。もしこの三カ所の土地の所有者が別人であれば、めいめいが自分の思う通りの名称を付けますから、このような上・中・下とセットになった地名になることは先ずありません。上・中・下は同じ所有者が命名したと考えるのが妥当です。従ってこの土地はセットで宗利が所有し、前記のように上ノ段は宗利一家と雇用人の住居、中ノ段は宗利が営む醸造場、下ノ段はそれに付属した物置場と推測できます。
 下ノ段の現在の面積は36uで極端に狭いのですが、この面積では「下ノ段」という名称は生まれなかったでしょうから、元はかなりの面積であったのに相違ありません。昭和15年頃までは竹藪と土屋があり一段低くなっていました。
 この名称が次第に地域全体に通用するようになったため、地名として認められたと考えられます。因みに上ノ段は訛ってウエンダ、中ノ段はナカンダと言われていました。
 このような営みが出来たのは、妻フリの親である名主馬場治郎左衛門の支援によるものと考えられます。治郎左衛門は同家の墓地内に初代成宗の骨を分骨して五輪塔を建立しました。フリはその傍らに燈籠を立て供養しています。娘の嫁ぎ先の舅を自分の墓地にも祭ることは殆ど例がありません。このような異例なことは、治郎左衛門が浦上氏との婚姻をこの上なく誇りに思っていたことを推測させます。だからこそこのような大きな支援を惜しまなかったのでしょう。
 宗利夫妻の墓域は豊島石の延石で横幅2b58a奥行2b33aの広さに囲っています。墓碑は墓域の前部に、右側が宗利で左にフリを祭り墓碑は破損がひどく確認できないが、フリの墓碑と考えて間違いないと思います。後ろの空間には夫妻が埋葬されていると思われます(写真参照)
 宗利の法名は「高取院海運」ですが、この法名は特殊な感じがします。一般的には仏教特有の佳字を選んで、導師が命名しますが、この院号の高取は明らかに高取一族の姓です。命名の経緯は分かりませんが、おそらく宗利が生前に菩提寺妙光寺で逆修(生前に自分の死後の冥福を祈って仏事を行うこと)を営んだ際に、住職に希望を話して法名を決めたものと思われます。宗利の母は高取備中守の娘であり祖父は備中守の弟であることから、高取家に対する深い思慕の念から自らの院号にしたと想像されます。戒名の海運も意外な感じがしますが、その意を知るすべはありません。
 宗利が営んだ酒の醸造業がいつまで続いたのか分かりませんが、中ノ段に6代宗義の弟庄七が分家していますので、それより以前に廃業していたのでしょう。不要になった酒蔵を取り壊し、半分を宅地にして半分を田に造成したと思われます。庄七は備前市三石の浦上知之家の初代ですが、同家の5代喜三次の代まで住んでいました。
 
 
 
更新日時:
2006/07/17

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最終更新日:2007/11/14