成宗(しげむね)は幼名与五郎、成人して太郎三郎と名乗っています。天神山城落城の際、乳母に抱かれて脱出した2歳の子です。この子について『吉備前秘録』と『吉備温故秘録』には、「宗景の末子」とし、馬場家文書の浦上系図には「宗景四男」としています。
しかし宗景が播州室津城から和気の天神山城へ移ったのが享禄5年(1532) で、落城が天正3年(1575)ですから在城期間は43年です。宗景の生年は不明ですが、落城時の歳は70歳に近い老齢です。その歳で2歳の子がいる可能性は極めて低いと思います。
また宗景の娘は、飯井村高松城主高取備中守の弟彌四郎を養子を迎え夫婦になっています(若宮神社の項参照)。このことから与五郎は宗景の末子でも四男でもなく、彌四郎夫妻の子即ち宗景の孫と推定できます。末子あるいは四男説は誤伝されたものか、或いは関ヶ原で負けて追われる身になった高取一族との関係を薄くするため、歪曲された可能性もあります。
父親の彌四郎は落城の際非業の死を遂げ、脱出の一行に加わった母親と乳母に抱かれた与五郎は、日笠川のほとりに着いたとき、母親は力尽き自害しました。先に書いたお姫さま伝説の主です。
両親を失った与五郎を庇護したのは伯父の高取備中守です(二項の『吉備前秘録』参照)。養育に当たった乳母の出自は、美作国神田山城主渋谷権之丞の娘千代と言われています(浦上元著『備前浦上氏の研究』)。城主の娘として育った千代は、与五郎の母親代わりになり立派に役目を果たしたと思われます。法名の「悲母妙徳尼」がそのことを物語っています。千代は成宗夫妻の傍らに葬られています。
前掲の『吉備前秘録』には、高取備中守の室は宗景の室の妹である関係から末子を預けたことになっています。この婚姻関係を明らかにするすべはありませんが、事実としても、備中守の弟彌四郎と宗景の娘が結婚した関係の方が濃いわけです。しかし同書は宗景の末子としていることから、このような記述になったのでしょう。2歳の子与五郎と備中守は伯父と甥の関係です。
成人した与五郎は太郎三郎と名乗り、備中守の娘さわと結婚しています。さわは従妹です。落城時の天正3年(1575)与五郎は2歳ですから、備中守が関ヶ原で討死した慶長5年(1600)には26歳になっています。
関ヶ原を境に太郎三郎夫妻を取り巻く状況が大きく変わったと思われます。豊臣方の宇喜多秀家の居城岡山城へは、コ川方に寝返った小早川秀秋が封ぜられました。豊臣方に荷担した高取一族は零落の一途を辿ることになり、一族の中には九州の黒田官兵衛を頼って逃げたという伝承があります。
太郎三郎夫妻がどのように暮らしたのか分かりませんが、三人の息子たちは無事成長しています。
太郎三郎成宗の法名を浄悦といい、妻のさわは妙光です。位牌は本家に祭っています。浄悦の位牌には「妙法浄悦位」と彫り込まれています。浄悦の位牌と同じ形式の位牌があり妙光のものと思われますが、文字が消えているので確認できません。
墓碑は妙光寺裏山の中腹にあった墓地から、いつのころか山麓に降ろして祭っていました。昭和53年一族が集まり400年遠忌を営みましたが、その期に墓碑を元の中腹に戻しました。墓碑には骨壺が埋葬されていました。その後平成2年9月18日の豪雨で地盤がゆるみ、墓域の後方に亀裂が走り、危険な状態になったので急遽東須恵墓地へ移転しました。移転したのは成宗夫妻、乳母千代、二代宗利の弟治郎左衛門と不明の墓碑の4基すべてです。
4基を東須恵墓地へ移転した際、馬場家墓地に成宗の供養塔として祭っていた五輪塔と燈籠を、成宗の墓の後(写真参照)へ移転しました。五輪塔には小さな骨壺が埋葬されていました。従来供養塔と考えていた五輪塔は実は墓碑でした。この経緯については後述します。成宗は火葬にされ妙光寺墓地と馬場家墓地の2カ所に祭られていました。
※飯井村高取氏について。
前記の記述に頻繁に登場する高取氏について触れておきます。
備前の鷹取(高取)氏の史料として、太田亮著『姓氏家系大辞典』に、
備前の鷹取氏 和気郡伊部村、真言宗長法寺の貞治四年三月廿三日の寄附状に「公文鷹取弾正能佐」見ゆ。
と書かれており、貞治年間(南北朝時代)には伊部村(現備前市伊部)周辺に住んでいたと推測されます。
『吉備温故秘録』には。
古城山 西須恵村(高取備中守の本拠は飯井村高松城であるが、西須恵村高山城に拠っていたことがあるのだろう 注筆者)
高取備中香登西村の城主、高取左衛門進宗政の子なり居城。天神山の麾下なり。祿三千石を領す。戸川秀安の舅なり。秀家卿の母たま殿と云に内縁有、子を備中守と云、弟を彌四郎といふあり。此彌四郎は宗景の娘を給はり、妻とせし由。死後に子細有て、邑久郡飯井村に若宮と祝ひある由。子備中守継で居城。宇喜多家へ仕ふ。戸川肥後守大阪屋敷へ取籠るときも、肥後守に与力せず。関ヶ原にて討死にす。秀家卿のとき、甚だ気に応じ、内縁もありける故にや、秀吉公よりの状など、今に残れり。
為音信焼物五つ送給候、御心入の段令祝着候毎度御懇志共候、猶黒田官兵衛可申候、恐々謹言
八月二十七日 羽柴秀吉 花押
鷹取備中守 御宿跡
備中守弟に喜八と云有。和気郡新庄・畠田の辺を支配するよし。宇喜多家の士帳を見るに、戸川の組に宇喜多喜八、千三百二十石とあり。内縁有に依て宇喜多の称を給はるか未詳。(後略)
文中の彌四郎に関することは先の「若宮神社」の項で書きました。
秀吉の書状に書かれている焼物とは備前焼のことで、度々贈っていたことが分かります。更にこのことを黒田官兵衛に話しておくと書いています。備中守と官兵衛とは親しかったことが読み取れます。
備中守が住む飯井村には、縁あって官兵衛の兄勝義が住んでいました。このことは勝義の墓碑と飯井村黒田氏系図で推定できます。系図には勝義は幼少の頃から病弱であったことが書かれています。このことから備中守が勝義を庇護していたと思われます。そのため官兵衛と備中守は昵懇であったと推測できます。この事情を秀吉は知っていたので、礼状に官兵衛に話しておくと書いたのでしょう。人情の機微に敏感な秀吉らしい書状です。
浦上が滅んだ後家臣の多くは宇喜多に属しました。高取も例外ではなく前掲書の通りです。落城後に書かれたと思われる『天神山城主浦上宗景武鑑』にも、備中守の弟と思われる喜八郎は浮田喜八と名前を変えて記載されています(浦上元著『備前浦上氏の研究』)。その後関ヶ原で西軍の総大将宇喜多秀家の麾下であった備中守は討死し、一族は追われる身になりました。
灘崎町片岡の高取氏の伝承によると、九州を転々とした後ひそかに舞い戻り、戸川氏に庇護され片岡に隠れ住んだと言われています。去る年筆者は同家を訪れ、当主の案内で藪に囲まれた隠し墓地に参ったことがあります。自然石の破片を集めて少し盛り上げ、その上に一石五輪のような小さな墓石が点々と並んでいました。追われる一族の悲哀が胸に迫る思いで花を供え、宇喜多残党の追求は手ぬるいものではなかったことを痛感しました。
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